旅愁 (りょしゅう)
【概説】
新感覚派の代表的作家である横光利一が、その晩年に執筆した未完の長編小説。自身のヨーロッパ旅行の体験をもとに、西洋の近代合理主義思想と日本の伝統的な精神思想との間で引き裂かれ、葛藤する昭和期(大正期から続く近代的苦悩の終着点)の知識人の姿を描いた記念碑的作品である。
新感覚派の旗手による精神的転回
大正末期から昭和初期にかけて、横光利一は川端康成らとともに、従来の自然主義文学に対抗する新感覚派を確立した。これは、大正デモクラシー期に流入したヨーロッパの新文学(ダダイズムや未来派など)に呼応し、感覚的な主観表現を重視したモダニズム文学の潮流であった。しかし、1936(昭和11)年の欧州参観旅行を契機に、横光の関心は西洋のモダニズムそのものから、西洋文明と対峙した際に見出される「日本的なもの」「東洋的なもの」へと急速にシフトしていく。その精神的模索の集大成として翌1937年から連載が開始されたのが、この『旅愁』である。
西洋の近代知性と日本回帰の相克
本作は、パリを舞台に、西洋文明の合理主義や科学思想に傾倒する若者と、日本の伝統精神やカトリックの信仰などに惹かれながら自己を模索する知識人たちの群像劇である。作中では、フランスの合理主義に裏打ちされた高度な物質文明に圧倒されつつも、その根底にある個人主義やキリスト教的倫理観に対して、東洋的な無常観や神道的な祖先崇拝の精神をいかに調和あるいは対峙させるかという、当時の日本知識人が直面していた最大の課題が議論される。この「西洋と東洋の対立」という構図は、同時代の思想界を席巻した「近代の超克」論とも深く連動しており、大正期に開花した近代化への懐疑と、昭和期のナショナリズム・日本回帰への流れを文学的に体現するものとなった。
日中戦争・太平洋戦争と未完の終焉
『旅愁』は、日中戦争の勃発から太平洋戦争、そして日本の敗戦に至る激動の10年間にわたり断続的に書き継がれた。戦時下の高揚と統制の中で、横光は西洋文明の乗り越えを模索し続けたが、1945(昭和20)年の敗戦により、それまでの価値観の再検証を迫られることとなる。戦後も執筆は再開されたものの、かつての国家像や精神的支柱を失った虚脱感の中で構想は混迷し、1947(昭和22)年の横光の急逝によってついに未完のまま遺された。本作は、大正期から培われた日本の近代文学が、戦争という極限状態においてどのように自己のアイデンティティを問うたかを示す、昭和文化史・思想史における重要な精神の記録である。