春陽会
【概説】
大正デモクラシー期に結成された、日本の近代洋画界を代表する在野の美術団体。二科会を脱退した小杉放庵や山本鼎らと、日本美術院洋画部の解散に伴うメンバーが合流して1922年に創立された。官僚的な官展(帝展)の権威主義に対抗し、個人の自由な芸術表現を尊重する独自の画風を確立した。
官展への対抗と「春陽会」創立の背景
大正期に入ると、文部省美術審査委員会が主催する官展(文展、のちの帝展)の審査基準や運営方針に対する不満から、画壇の権威主義に異を唱える在野の美術運動が活発化した。その急先鋒であった二科会から、1922(大正11)年に小杉放庵(未醒)、山本鼎、森田恒友、倉田白羊、足立源一郎、長谷川昇の6名が脱退した。
彼らは、同時期に活動の限界を迎えて解散した日本美術院洋画部の主要メンバー(木村荘八、中川一政、岸田劉生、萬鉄五郎ら)や、特別客員として迎えた梅原龍三郎らと合流。これにより、1922年1月に「春陽会」が誕生した。この結成劇は、当時の美術界における最大級の勢力再編であり、官展、二科会、院展に並ぶ「第四の勢力」の出現として大きな話題を呼んだ。
「大正アヴァンギャルド」と個性派の集結
春陽会の最大の特徴は、大正デモクラシーの思潮を背景にした、徹底的な「個性の尊重」と「自由主義的校風」にあった。特定の洋画スタイルに拘泥せず、ヨーロッパのポスト印象派や野獣派(フォーヴィスム)の受容から、東洋画の伝統的な美意識の再解釈まで、多様な表現が試みられた。
例えば、中心メンバーの小杉放庵は東洋的な水墨画のニュアンスを油彩画に持ち込み、岸田劉生は北方ルネサンス風の徹底した写実を追求した。また、山本鼎は児童の自由画運動や農民美術運動を主導した人物であり、その思想を反映して春陽会は1924(大正13)年に日本の美術団体で初めて版画部門を設置した。これは、当時まだ「職人の技術」とみなされがちだった近代版画(創作版画)の芸術的地位を飛躍的に向上させる契機となった。
日本近代美術における歴史的意義
春陽会は、官展の画一的な美意識に対抗する強力な受け皿として機能し、戦前・戦後の日本の洋画壇における多様性の確保に大きく貢献した。その自由な空気は、多くの若手画家たちを惹きつけ、日本独自の「洋画」の発展を促した。その後、時代の変遷とともにメンバーの脱退や再編(岸田劉生らの脱退による「草土社」への傾倒や、梅原龍三郎の国画会への移行など)を経験しながらも、春陽会は現代に至るまでその命脈を保ち、日本の近代美術史に消え去ることのない足跡を残している。