岸田劉生

初期は白樺派の影響を受けたが、のちに徹底した写実による独自の神秘的な画風を築き、『麗子像』の連作を残した洋画家は誰か?
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重要度
★★

岸田劉生 (きしだりゅうせい)

1891年〜1929年

【概説】
大正期を代表する洋画家。文学グループ「白樺派」との交流を通じて西洋のポスト印象派に強い衝撃を受けつつも、やがて独自の写実主義へと傾倒していった人物。北方ルネサンス美術の影響のもと、事物の本質や内面を凝視する「内在美」を唱え、愛娘をモデルとした一連の『麗子像』の連作など、日本洋画史に不滅の足跡を残した。

白樺派との交流と「自己」の表現

岸田劉生は、ジャーナリスト・実業家として著名な岸田吟香の次男として東京・銀座に生まれた。当初は黒田清輝が主宰する白馬会洋画研究所で、当時の最先端であった外光派(印象派の流れを汲む明るい画風)を学んだ。しかし、1910年に創刊された雑誌『白樺』を通じて、ゴッホやゴーギャン、セザンヌといったポスト印象派(後期印象派)の芸術を知ることで、彼の画家としての方向性は一変する。

武者小路実篤や志賀直哉らに代表される白樺派の人道主義、個性の尊重、自己の内面を肯定する思想は、劉生に強い影響を与えた。彼は、単に対象をありのままに写し取るのではなく、自らの「自己」や精神世界を画面に表白することを目指し、1912年には高橋源吉や木村荘八らとともに「フュウザン会」を結成。強烈な色彩と激しい筆触による、フォーヴィスム(野獣派)的な作品を発表して、大正期における前衛美術の先駆けとなった。

「内在美」の追求と北方ルネサンスへの傾倒

しかし、個性の表出を急ぐあまり、感覚的な新しさに流れる現代美術(モダン・アート)のあり方に劉生は次第に疑問を抱くようになる。彼が次に求めたのは、人間の感覚を超えた、より深く不動のリアリズムであった。その契機となったのが、デューラーやファン・エイクといった15〜16世紀の北方ルネサンス(ドイツ・フランドル地方)の古典絵画との出会いである。

劉生はこれら古典的写実を深く追究することで、事物の単なる外見的・装飾的な美しさを否定し、その奥底に潜む「不気味なほどの生命の真実」を描き出そうとした。これを彼は「内在美」(あるいは「デコラティヴ」に対する「実在的」な美)と呼んだ。この時期の代表作『道路と土手と塀(切通しの写生)』(1915年)では、土手と塀という日常的な風景が、克明な写実と強固な構成力によって、宗教的な厳かさすら漂う神秘的な空間へと昇華されている。

『麗子像』の連作と晩年の東洋回帰

劉生の「内在美」の追求が最も象徴的に現れたのが、1918年頃から没するまで描き続けられた、愛娘をモデルとする一連の『麗子像』の連作である。初期の『麗子五歳之像』などでは比較的素直な写実が見られるが、次第にデフォルメが加わり、妖艶さや奇怪さ、東洋的な神妙さを兼ね備えた独特の画風へと変化していった。これらは西洋画の技法を用いながらも、人間の深層心理に迫る独自の精神世界を表現した、大正アヴァンギャルド芸術の頂点の一つと評価されている。

晩年の劉生は、宋元画(中国の古典画)や初期肉筆浮世絵などの東洋美術にも深い関心を寄せ、日本画の制作や油彩画における東洋的「気韻」の融合を試みた。38歳という若さで急逝したが、その足跡は、明治以来の「西洋の模倣」としての油絵から脱却し、「日本人の手による、東洋の精神を宿した油彩画」を確立しようとした、大正モダニズム期における極めて重要な挑戦の歴史であったといえる。

岸田劉生全集〈第1巻〉文集 (1979年)

孤高の画家が綴る芸術への情熱と美学、その魂の軌跡を克明に刻んだ思考の記録。

岸田劉生晩景

病に倒れる直前の静謐な心境と、永遠の美を追い求めた画家の晩年を象徴する短編集。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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