古寺巡礼 (こじじゅんれい)
【概説】
哲学者・倫理学者である和辻哲郎が1919(大正8)年に刊行した文芸・美術批評書。奈良の古寺や仏像を巡り、西洋の芸術思潮や哲学の視点を交えながら、飛鳥・天平美術の豊かさを新鮮な感性で論じた大正教養主義を代表する名著である。
大正教養主義と「日本への回帰」
大正デモクラシー期、日本の知識人の間では、西洋の先進的な思想や文学を普遍的な価値として摂取する大正教養主義が興隆した。著者の和辻哲郎もまた、夏目漱石に師事し、ニーチェやキェルケゴールなどの西洋哲学に深く傾倒した近代知識人の一人であった。しかし、西洋文明を急速に受容する過程で、彼は自らの立脚点である「日本」の精神的ルーツを見つめ直す必要性に迫られる。1918年の奈良旅行を契機に執筆された『古寺巡礼』は、単なる古美術の案内書にとどまらず、西洋という「他者」を通じて自己の精神的源流を再発見しようとする、大正知的エリートの模索の結晶であった。
西洋美術史観の導入と独自の芸術批評
本書の最大の特徴は、アーネスト・フェノロサや岡倉天心らが先鞭をつけた日本美術の再評価を、さらに西洋美術史の専門知識と私的な文学的感性によって深化させた点にある。和辻は、法隆寺の百済観音像や薬師寺の薬師三尊像などの造形美を、ミケランジェロの彫刻やギリシア・ローマ美術、ガンダーラ美術との比較文明論的な連関の中で捉え直した。これにより、仏像を従来の「信仰の対象」から、純粋な「芸術作品」として鑑賞する近代的な視座を確立した。その情熱的でみずみずしい文体は、それまで専門家の特権であった古美術の魅力を、広く一般の読書界に開放する役割を果たしたのである。
後世への影響と文化史的意義
『古寺巡礼』の刊行は、当時の青年層に「奈良の古寺を訪ね、仏像と対話する」という新しい知的な旅のスタイルを定着させ、一種の古美術ブームを巻き起こした。これは志賀直哉をはじめとする白樺派の文学者による日本・東洋美術への関心とも共鳴し、大正期における伝統文化への再評価に決定的な影響を与えた。戦後においても広く読み継がれ、日本人が自国の伝統的な美意識や精神風土を論じる際の原点としての地位を保ち続けている。