河上肇 (かわかみはじめ)
【概説】
大正から昭和初期にかけて活躍した、京都帝国大学教授でありマルクス経済学者。著書『貧乏物語』が大ベストセラーとなり、大正デモクラシー期の多くの知識人や学生に社会主義思想への関心を抱かせた。その後も実践的なマルクス主義者として活動し、日本の社会運動史・思想史に多大な影響を与えた。
ヒューマニズムからの出発
河上肇は1879(明治12)年、山口県に生まれた。東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、農政学や経済学を専攻するが、彼の思想の原点にはキリスト教やトルストイの人道主義(ヒューマニズム)があった。当初は絶対的な利己心を前提とする近代経済学に疑問を抱き、道徳的・倫理的な観点から社会問題の解決を模索していた。1908(明治41)年からは京都帝国大学で教鞭をとるようになり、真摯な学問的態度で多くの学生を惹きつけた。
『貧乏物語』の大ヒットとその時代背景
河上の名を一躍有名にしたのが、1916(大正5)年に『大阪朝日新聞』で連載され、翌年に出版された『貧乏物語』である。当時は第一次世界大戦に伴う大戦景気に沸き、成金が続出する一方で、物価高騰によって都市民衆や労働者の生活は困窮を極めていた。翌1918(大正7)年の米騒動に象徴されるように、貧富の格差が深刻な社会問題となっていた時期である。
河上は同書において、「多数の人が貧乏であるのは、少数の人が贅沢をしているからだ」と説き、富裕層の贅沢の廃止や個人の道徳的な反省による貧困問題の解決を主張した。この分かりやすく情熱的な主張は爆発的な人気を呼び、大ベストセラーとなった。この著作をきっかけに、当時の多くの青年・学生・知識人が貧困問題や社会構造の矛盾に目を向け、のちにマルクス主義や社会主義思想へ傾倒していく重要な精神的入り口となったのである。
マルクス主義への傾倒と大学追放
『貧乏物語』は社会的良心に訴えかけるものであったが、やがて河上自身が「個人の道徳的覚醒だけでは資本主義の構造的矛盾は解決できない」と自らの思想の限界を悟り、激しい自己批判を行うようになる。大正末期から昭和初期にかけて、彼は本格的にマルクス経済学の研究に没頭し、『資本論』の翻訳や唯物史観の普及に尽力した。
しかし、当時は治安維持法(1925年制定)体制の下、マルクス主義や社会運動への弾圧が激化していた。1928(昭和3)年、日本共産党に対する全国的な大弾圧である三・一五事件が起こると、その直後に文部省の圧力により、河上は京都帝国大学の辞職を余儀なくされた。これを機に彼は象牙の塔を去り、実践的な運動へと身を投じていくこととなる。
地下活動と獄中生活、そして晩年
大学追放後、河上は政治的実践の道を進み、1932(昭和7)年には非合法政党であった日本共産党に入党して地下活動を行った。しかし翌1933年、特別高等警察(特高)によって検挙され、治安維持法違反で懲役5年の実刑判決を受けた。多くの左翼知識人が権力の弾圧を前に転向(思想の放棄)をしていく中、河上は獄中にあっても転向を拒み通し、漢詩の創作や自伝の執筆に精神的な救いを見出した。
出獄後は一切の政治的活動を禁じられ、軟禁状態に近い形で執筆活動を続けながら敗戦を迎えた。戦後の1946(昭和21)年に66歳でこの世を去ったが、その死後に刊行された『自叙伝』は、権力に屈せず自らの思想的信念に殉じた知識人の記録として、戦後日本の思想界に深い感動を与え読まれ続けた。河上肇は単なる経済学者にとどまらず、近代日本における「知識人の良心」を体現した人物として、歴史的に高く評価されている。