第1次日韓協約
1904年
【概説】
日露戦争中の1904年8月、日本が大韓帝国(韓国)に強要して締結した外交協約。韓国政府に対し、日本政府が推薦する財政および外交の顧問を置くことを義務付け、実質的な「顧問政治」を開始した契機となる取り決め。
日露戦争の勃発と支配強化への布石
1904年2月に日露戦争が勃発すると、日本は同月、韓国に対して日韓議定書を締結させ、軍事戦略上の要地を自由に占領・使用する権利を確保した。これにより韓国を事実上の戦時同盟国として巻き込んだ日本は、戦争の推移を見極めつつ、韓国の主権を段階的に奪う「保護国化」の政策を推し進めた。同年8月に調印された第1次日韓協約(日韓第八号条約)は、その具体的な第一歩であった。
「顧問政治」の実態と段階的な国権奪取
この協約の最大の特徴は、韓国政府の財政および外交の根幹に、日本が指定する「顧問」を介在させたことにある。財政顧問には大蔵省出身の官僚である目賀田種太郎(めがたたねたろう)が就任し、韓国の貨幣整理事業を断行して韓国経済を日本経済の枠組みへと強制的に組み込んだ。一方、外交顧問にはアメリカ人のダーハム・W・スティーブンスが任命され、国際社会に向けて日本の韓国支配を正当化する外交宣伝を行った。
このように、第1次日韓協約は形式的な主権を残しつつも、財政と外交という国家の生命線を実質的に管理下に置く「顧問政治」を確立した。これは、日露戦争終結後の1905年に締結され、韓国の外交権を完全に奪って統監府を設置した第2次日韓協約(韓国保護条約)へと至る、段階的な国権剥奪プロセスの重要な起点であった。