第2次日英同盟 (だいにじにちえいどうめい)
【概説】
日露戦争末期の1905年8月に調印された、日本とイギリスの間で結ばれた同盟の改定・強化条約。従来の東アジアからインドにまで適用範囲を広げ、イギリスによる日本の韓国保護国化の承認と、日本によるイギリスのインド支配の承認を柱とした攻守同盟である。
日露戦争の推移と改定の背景
1902年に締結された第1次日英同盟は、ロシアの極東進出を阻止することを主目的としていた。この同盟を背景に日本は1904年に日露戦争へと踏み切るが、翌1905年に奉天の会戦や日本海海戦で勝利を収めたものの、国力は限界に達しつつあった。一方のイギリスも、南下するロシアの脅威のみならず、急速に台頭するドイツへの警戒を強めていた。
このような国際情勢の中、日露の講和交渉(ポーツマス会議)が進められるのと並行して、日英両国は戦後の東アジアにおける自国の優位を確実なものにするため、同盟関係の継続と強化を模索した。その結果、ポーツマス条約調印を目前に控えた1905年8月12日、ロンドンにおいて第2次日英同盟が調印された。
同盟内容の強化と相互の利益
第2次日英同盟における最大の改定点は、同盟の性質が「攻守同盟」へと引き上げられたことである。第1次では「締結国の一方が第三国と交戦する場合、他方は中立を維持し、二国以上と交戦する場合に初めて参戦義務が生じる」とされていたが、第2次では「一方が他国と交戦した場合、直ちに他方は参戦し、共同戦闘を行う」という義務が課された。これにより同盟の抑止力は格段に強まった。
さらに、同盟の適用範囲が従来の「清国および韓国」から「東亜および印度(インド)」へと拡大された。これは、ロシアの南下をアフガニスタンやインド方面で警戒するイギリスの意向を反映したものであった。その見返りとして、イギリスは日本が韓国(大韓帝国)に対して「指導、支配および保護の措置」を講じる権利、すなわち韓国の保護国化を承認した。これは同年に日本がアメリカとの間で交わした桂・タフト協定と並び、日本の韓国支配を国際的に承認させる決定的な外交工作となった。
その後の東アジア情勢への影響
第2次日英同盟の締結により、日本はイギリスの強力な後ろ盾を得て、ポーツマス条約でロシアから韓国に対する優越権を獲得することに成功した。そして同年11月には第二次日韓協約(日韓保護条約)を強制し、大韓帝国の外交権を奪って統監府を設置し、事実上の保護国化を完成させた。
また、この同盟改定はロシアの東アジア・インドへの膨張を断念させ、ロシアの関心をバルカン半島へと向かわせる契機となった。その結果、1907年には日露協約や英露協商が締結され、日・英・仏・露による対ドイツ包囲網(三国協商の形成)へと国際関係が再編されていくこととなった。