関東都督府 (かんとうととくふ)
【概説】
日露戦争後の1906年、清国から獲得した租借地である関東州の統治と満州権益の防衛を目的に、旅順に設置された日本の出先機関。軍政と民政の権限を一手に握る強力な総督政治を行い、のちの関東軍の母体となった組織。
日露戦争後の満州進出と関東都督府の設置
1905(明治38)年、日本は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約によって、ロシアから遼東半島南部の租借権(のちの関東州)および、長春・旅順間の鉄道(のちの南満州鉄道、通称・満鉄)とその付属地の利権などを獲得した。日本政府はこれらの新しい領土・権益を管理・維持するため、それまでの戦時軍政を民政へと移行させる必要に迫られた。そこで1906(明治39)年9月、従来の遼東守備軍司令部を改組し、現地旅順に官衙(政府機関)としての関東都督府を設置した。初代都督には陸軍大将の大島義昌が任命され、都督には陸軍大将または中将が充てられる「武官総督制」が敷かれた。
民政・軍政の一体化と満鉄との関係
関東都督府は、関東州の行政を担う民政部と、現地の駐屯軍や満鉄線路を守備する独立大隊を統括する陸軍部の二部構成をとっていた。関東都督に与えられた権限は極めて強力であり、管轄区域内の行政権(民政)のみならず、軍事指揮権、さらには現地の清国地方官との直接交渉を行う外交権までも有していた。さらに、国策会社として設立された南満州鉄道株式会社の業務を監視・保護する権限も与えられており、関東都督府は日本における満州経営・植民地支配の最高意思決定機関として機能した。しかし、この軍人である都督が外交権まで握る体制は、外務省との間で外交方針をめぐる対立(二重外交)を生む原因ともなった。
1919年の官制改革と「関東軍」の誕生
大正期に入ると、大正デモクラシーの進展に伴う政党政治への移行や、軍部の暴走を懸念する国内外の世論の高まりを受け、植民地統治における武官総督制の見直しが始まった。1919(大正8)年、本格的政党内閣である原敬内閣のもとで関東都督府の官制改革が行われ、同機関は発展的に解消された。これによって、民政部門は文官長官が率いる関東庁へと改組され、軍事部門は独立した軍隊としての関東軍(司令部・旅順)へと分離した。この時、都督府から軍事機能が分離・独立したことによって、後に昭和期の満州事変をはじめとする独断専行を繰り返すことになる帝国陸軍「関東軍」が正式に誕生することとなったのである。