秦佐八郎 (はた さはちろう)
【概説】
明治時代から昭和初期にかけて活躍した日本の細菌学者。ドイツの医学者パウル・エールリヒと共同で、当時不治の病とされた梅毒の特効薬である「サルバルサン」を発見した。この歴史的業績により、病原体のみを標的とする「化学療法」という新しい医学分野の確立に多大な貢献を果たした。
北里柴三郎のもとでの研鑽とドイツ留学
秦佐八郎は島根県に生まれ、岡山医学専門学校(現在の岡山大学医学部)を卒業後、北里柴三郎が主宰する国立伝染病研究所に入所した。当時の日本は富国強兵策を推し進めており、公衆衛生の向上や感染症対策は近代国家建設のための急務であった。秦はペスト菌の発見者である北里や、赤痢菌を発見した志賀潔らのもとで、世界最先端の細菌学と厳格な実験手技を徹底的に学んだ。
1907年(明治40年)、秦は医学の本場であったドイツへ留学する。ロベルト・コッホの研究所などで学んだ後、フランクフルトにある実験治療研究所の所長、パウル・エールリヒの招きを受けた。エールリヒは、人体などの宿主には害を与えず、特定の病原体のみを狙い撃ちにして破壊する「魔法の弾丸」という概念を提唱し、化学物質を用いた新たな治療法の開発に取り組んでいた。
世紀の発見「サルバルサン(第606号)」
秦はエールリヒから、梅毒に対する化学療法の研究を任された。当時、梅毒は世界中で猛威を振るっており、有効な治療法が存在しない恐ろしい不治の病であった。梅毒の病原体である梅毒スピロヘータは動物での培養が極めて困難であったが、秦はウサギの精巣を用いた動物実験モデルを確立するという重要な貢献をした。
秦は持ち前の忍耐力と精緻な技術で、ヒ素化合物の動物実験を昼夜を問わず繰り返した。そして1910年(明治43年)、ついに606番目に合成された化合物(アルスフェナミン)が、梅毒スピロヘータに対して劇的な殺菌効果を持ちながら、宿主である動物への毒性が低いことを突き止めた。この特効薬は「人類を救済する」という意味を込めてサルバルサンと命名され、またたく間に世界中へ普及し、数え切れないほどの梅毒患者の命を救うこととなった。
歴史的意義と近代日本医学の世界的な台頭
秦とエールリヒによるサルバルサンの発見は、単に一つの感染症の特効薬を見出したにとどまらない。特定の病原体を化学物質によって選択的に死滅させるという化学療法(chemotherapy)の扉を開いた点に最大の歴史的意義がある。この基礎概念は、後のペニシリンをはじめとする抗生物質や、現代の抗がん剤の開発へと直接的に連なっている。
この多大な功績により、秦佐八郎はエールリヒと共にノーベル生理学・医学賞の候補に幾度も推挙された(惜しくも受賞には至らなかったが、その業績はノーベル賞級と世界で評価されていた)。秦の活躍は、明治維新からわずか数十年という短期間で西洋医学を吸収し、北里柴三郎や志賀潔、野口英世らと共に、日本の医学研究が世界最高峰の水準に到達していたことを象徴する出来事であった。