大森房吉 (おおもりふさきち)
【概説】
明治から大正時代にかけて活躍した、日本を代表する地震学者。初期微動の時間から震源までの距離を算出する「大森公式」の提唱や、各種地震計の改良・開発を通じて、日本における近代地震学および防災学の基礎を築いた人物である。
お雇い外国人の系譜と近代地震学の確立
幕末から明治維新にかけて、日本は西洋の先端科学技術を急速に吸収した。地震学の分野においては、明治初期に来日したイギリス人お雇い外国人のジョン・ミルンやジェームズ・アルフレッド・ユーイングらが中心となり、1880年に世界初の地震学会である「日本地震学会」が設立された。大森房吉は、彼らが東京帝国大学で育てた初期の日本人門下生の一人である。
大森は帝国大学理学部物理学科でイギリス人教授らに師事し、卒業後は大学院に進んで地震学を専攻した。1891年に発生した濃尾地震の惨状を目の当たりにしたことで地震研究への志をいっそう強くし、1892年に国の方針として設置された震災予防調査会の初代委員に就任。後にドイツやイタリアへの留学を経て、帰国後は東京帝国大学の地震学講座の初代教授となった。
「大森公式」の提唱と観測技術の革新
大森の最も代表的な業績は、1899年に発表された「大森公式」の提唱である。これは、地震が発生した際に最初に到達するP波(初期微動)と、その後に到達するS波(主要動)の時間差(初期微動継続時間)が、震源までの距離に比例することを示した経験則である。この公式の誕生により、1地点の観測データから震源までの大まかな距離を、複数地点のデータからは正確な震源位置を割り出すことが可能となり、現代の緊急地震速報の技術的ルーツともなった。
さらに大森は、従来の地震計を改良した「大森式地震計」をはじめ、各種の連続記録式地震計を開発・実用化した。これらの地震計は日本国内のみならず世界中の一流観測所に配備され、世界の地震観測網の整備に大きく寄与することとなった。彼は世界の地震多発地帯(サンフランシスコ地震やイタリアのメッシーナ地震など)の現地調査にも精力的に赴き、「世界のオオモリ」としてその名を轟かせた。
今村・大森論争と関東大震災
大森の功績を語る上で欠かせないのが、愛弟子である今村明恒との間に生じた「震災予防論争」である。今村は過去の地震周期から「50年以内に関東地方で大地震が発生し、甚大な被害が出る可能性がある」として、東京の防災体制の不備と震災対策を訴えた。これに対し大森は、学問的な予測精度への懸念や、社会の過度な動揺を避ける観点、また「一度大地震が発生した後はしばらく安全である」という持論から、今村の説を「浮説(根拠のないうわさ)」として否定的に扱った。
しかし、1923年(大正12年)9月1日、東京を未曾有の災害が襲った。関東大震災の発生である。この時、大森はオーストラリアのメルボルンで開催されていた汎太平洋学術会議に出席中であった。現地の観測所で東京の壊滅を知った大森は、今村の予測の正しさを認めつつ急遽帰国の途についたが、船上ですでに脳腫瘍の病に侵されており、帰国直後に東京大学医学部附属病院で没した。日本の地震学の父と称された大森の死は、一つの時代の節目を象徴するものとなった。