橋本雅邦 (はしもとがほう)
【概説】
明治期を代表する日本画家。フェノロサや岡倉天心にその才能を見出され、狩野芳崖とともに近代日本画の先駆者となった人物。東京美術学校の開校に際して絵画科主任教授となり、横山大観や下村観山、菱田春草ら次代を担う不世出の画家たちを育成した。
狩野派の伝統とフェノロサとの出会い
橋本雅邦は天保6年(1835年)、川越藩御用絵師である橋本晴園の子として江戸に生まれた。若くして幕府御用絵師の最高峰である木挽町狩野派の勝川雅信に師事し、同門の狩野芳崖とともに「勝川塾の二妙」と称されるほどの頭角を現した。しかし、幕末から明治維新にかけての社会激変のなかで幕府や藩のパトロンを失い、一時は生計を立てるために海軍兵学校で製図工として働くなど、不遇の時代を過ごした。
雅邦の転機となったのは、アメリカの美術史家アーネスト・フェノロサと、その助手であった岡倉天心との出会いである。フェノロサらは伝統美術の復興を目指して「鑑画会」を設立し、衰退していた日本画の近代化を模索していた。雅邦は彼らにその伝統的かつ確かな技術を高く評価され、芳崖とともに新日本画運動(近代日本画の創造)の中心的役割を担うこととなった。
東京美術学校での教育活動と日本美術院の創設
明治22年(1889年)、天心らが中心となって東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校すると、雅邦は絵画科の主任教授に就任した。開校直前に急逝した盟友・狩野芳崖の遺志を継ぐ形で、雅邦は近代的な美術教育のシステムを構築し、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月といった、のちの日本画壇を牽引する多くの巨匠たちを直接指導した。
しかし、明治31年(1898年)に学内の権力闘争(美術学校騒動)によって岡倉天心が校長を辞任すると、雅邦も天心と行動を共にして官職を辞した。同年に天心らとともに民間組織である日本美術院を創設し、引き続き後進の指導と創作活動にあたった。この一連の動きは、官展主導ではない民間発の自由な美術運動の源流となった。
近代日本画の確立とその作風
雅邦の画風は、木挽町狩野派の強固な骨描き(線描)技術を基盤としながらも、西洋画の写実表現や光、空間表現(空気遠近法や陰影法)を巧みに取り入れた点に特徴がある。東洋の伝統的な精神性と西洋の合理主義的な空間構成を融合させ、それまでの形式主義に陥っていた狩野派の表現を一新した。
代表作である『白雲紅樹』(国指定重要文化財)は、渓谷の自然を豊かな色彩と確かな空間把握によって描いた傑作であり、新たな日本画の方向性を世に示した。明治41年(1908年)に没するまで、第一線で近代日本画の地位向上と定着に大きく貢献した。