箱根八里 (はこねはちり)
【概説】
鳥居忱(まこと)作詞、滝廉太郎(たきれんたろう)作曲による明治時代の代表的な唱歌。江戸時代の交通の難所であった箱根の険しさと歴史的景観を、西洋音楽の技法を用いた勇壮なメロディーで歌い上げた作品。
西洋音楽の受容と『中学唱歌』の誕生
「箱根八里」は、1901年(明治34年)に東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)が編纂・刊行した『中学唱歌』に初めて掲載された。明治政府は「文明開化」および「富国強兵」の一環として、学校教育における音楽(唱歌)の普及を急いだ。初期の唱歌は西洋の民謡などに日本語の詞を当てはめる「翻案」が主流であったが、明治30年代に入ると、日本人自身の手による創作唱歌が盛んに作られるようになる。
本作の作曲を手がけた滝廉太郎は、当時の日本における西洋音楽黎明期を代表する天才作曲家であった。彼はドイツ留学を控えた時期にこの曲を手がけており、それまでの日本の伝統的な音楽にはなかった、ヘ短調の短音階や2/4拍子の力強い行進曲風の軍歌・唱歌スタイルを取り入れた。この勇壮なメロディーは、日清戦争後のナショナリズムの高まりや、近代化を急ぐ当時の若者たちの高揚感と見事に合致し、広く愛唱されることとなった。
歌詞が描き出す歴史的景観と関所制度
国文学者である鳥居忱による歌詞は、江戸時代の「東海道」における最大の難所であった箱根八里(小田原宿から箱根関所を経て三島宿に至る約32キロメートルの山道)をモチーフにしている。
「箱根の山は天下の険」「万丈の山、千仞の谷」といった漢語を多用した格調高い歌詞は、箱根の急峻な地形を活写している。さらに「関守の番」というフレーズは、江戸幕府が「入り鉄砲に出女」を厳しく監視した箱根関所を指しており、徳川日本の徹底した国内管理・防衛体制の記憶を投影している。このように、歌詞を通じて江戸時代の参勤交代や庶民の旅の苦難、そして軍事・交通の要衝としての箱根の歴史的意義が、近代的な教育の場で語り継がれることとなった。
近代化による交通革命と「過去の難所」の記念碑化
本曲が発表された1901年は、すでに日本において鉄道の敷設が進み、1889年(明治22年)には東海道本線(当時は現在の御殿場線経由)が開通していた時期にあたる。つまり、物理的に箱根の峻険な山道を徒歩で越える必要性は急速に失われつつあった。
かつての「天下の険」が近代的な技術によって克服され、過去の記憶となりつつあるタイミングで「箱根八里」が歌われたことには大きな歴史的意義がある。鉄道や近代道路の開通という「交通革命」によって失われゆく江戸時代の歴史的・地理的記憶が、近代的な音楽という新たなメディアを通じて、国民共通の歴史的イメージとして再構成され、記念碑化されたのである。