文芸協会

坪内逍遥や島村抱月らが中心となって1906年に結成され、イプセンの『人形の家』などを上演して新劇運動をリードした団体は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
文芸協会(Wikipedia)

文芸協会

1906〜1913年

【概説】
坪内逍遥や島村抱月らが中心となり、新劇の普及と新しい俳優の育成を目的として設立された演劇団体。西欧の近代戯曲の上演を通じて日本の近代演劇の先駆となり、特にイプセンの『人形の家』の上演は社会的に大きな反響を呼んだ。

設立の背景と演劇改良運動

明治維新以降、日本では欧米の近代国家にふさわしい演劇のあり方を模索する演劇改良運動が盛んに行われた。しかし、従来の歌舞伎を基礎とした改良や、日清戦争期に台頭した通俗的な新派劇では、西欧の近代戯曲が持つ精神や写実的な人間描写を十分に表現することは困難であった。こうした状況下で、文学者でありシェイクスピア翻訳の先駆者でもある坪内逍遥は、真に近代的な演劇(のちに「新劇」と呼ばれる)の創造を志した。そして1906(明治39)年、逍遥やその門弟である島村抱月らを中心に、文学・演劇の総合的な革新を目指す「文芸協会」が組織された。

演劇研究所の開設と『人形の家』の大反響

文芸協会は1909(明治42)年に演劇研究所を附設したことで、本格的な演劇団体へと脱皮した。ここでは従来の演劇界の徒弟制度を排し、一般から公募した男女の研究生に対して近代的な俳優教育を施した。その第1期生から登場したのが、日本初の近代女優として名を馳せることになる松井須磨子である。1911(明治44)年、協会は帝国劇場などでシェイクスピアの『ハムレット』や、北欧の劇作家イプセンの『人形の家』を翻訳上演した。特に『人形の家』で須磨子が演じた主人公ノラの自立を求める姿は、当時の知識層や女性たちに強烈な衝撃を与え、大正期の「新しい女」の登場を先導することとなった。

協会の分裂と新劇運動への遺産

文芸協会は新劇のパイオニアとして華々しい成果を収めたが、その活動は長くは続かなかった。指導者である島村抱月と、看板女優となった松井須磨子との間の恋愛問題が引き金となり、道徳性や学術的・芸術的完成度を重視する坪内逍遥との間で方針の対立が生じた。1913(大正2)年、抱月と須磨子は協会を脱退して新たに「芸術座」を結成。指導者を失った文芸協会は同年に解散を余儀なくされた。しかし、文芸協会が育成した人材やその公演活動は、その後の自由劇場や築地小劇場へと受け継がれ、日本の近代演劇の発展における強固な礎となった。

明治文學全集 16 坪内逍遥集

近代文学の原点となる写実主義の精髄を凝縮し、逍遥文学の全貌を俯瞰できる必携の集大成。

忘れられた演劇 (近代日本演劇の記憶と文化 1)

埋もれた上演記録を掘り起こし、近代演劇の知られざる変遷と豊穣な記憶を浮き彫りにした貴重な探究の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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