女 (おんな)
【概説】
明治後期の彫刻家・荻原守衛(碌山)によるブロンズ彫刻作品。後ろ手に縛られたような姿勢で跪き、天を仰ぐ女性の姿を通じて、人間の内面的な情熱と苦悩を強烈に表現した近代日本彫刻の傑作である。
ロダンの影響と日本近代彫刻の誕生
明治時代、日本の美術界は西洋技術の導入を進めるなかで、徐々に「自己の表現」を追究する近代芸術へと脱皮していった。その彫刻分野において先駆的な役割を果たしたのが、長野県出身の彫刻家・荻原守衛(碌山)である。守衛は渡米した後にフランスのパリへ渡り、そこで近代彫刻の父と呼ばれるオーギュスト・ロダンの作品に強い衝撃を受け、彫刻家としての道を歩むことを決意した。
当時、ロダンが提唱していたのは、形体の背後にある生命感や精神性を表現する「生命の彫刻」であった。守衛はロダンから直接指導を受け、その思想を日本へ持ち帰った。それまでの日本の彫刻が、江戸時代までの仏像・置物の伝統や、外見の精巧さを競う写実主義にとどまっていたのに対し、守衛は「芸術は生命の表現である」とする内面重視の彫刻観を日本に移植し、日本の近代彫刻の基礎を築いた。
愛と苦悩が凝縮された絶筆「女」
1910(明治43)年に制作された「女」は、守衛が30歳という若さで急逝する直前に完成させた絶筆である。この作品は、後ろ手で縛られているかのような姿勢でひざまずき、ねじられた身体から天を仰ぐように頭部を突き出す女性のポーズが特徴である。ここには、単なる女性美の模倣ではなく、人間の魂が持つ強い生命力や、抑圧された情熱、そしてそこから生じる苦悩が生々しく表現されている。
この作品の背景には、守衛が終生、思募を寄せ続けた新宿「中村屋」の創業者・相馬愛蔵の妻である相馬黒光(こっこう)への秘められた愛情があったとされる。道ならぬ恋に身を焦がし、芸術とキリスト教信仰の狭間で葛藤した守衛の精神世界が、このダイナミックなポーズに結晶化したといえる。守衛はこの作品の粘土原型を完成させた数日後に喀血し、急逝した。
日本近代美術史における意義
守衛の死後、大正期から昭和初期にかけて、日本の近代彫刻は彼がもたらした「ロダン風」の主観的・表現主義的なスタイルを強く継承していくことになる。中原悌二郎や高村光太郎といった彫刻家たちも、守衛の開拓した「内面を表現する彫刻」の道に大きな影響を受けた。
本作「女」は、個人の内なる葛藤と近代的な自我の確立を三次元の立体造形として日本で初めて見事に具現化した記念碑的作品として高く評価されている。その美術史的価値から、1967(昭和42)年には明治以降の彫刻作品として初めて重要文化財に指定された。現在は東京国立近代美術館に石膏原型が、また長野県安曇野市の碌山美術館などにブロンズ像が所蔵されている。