東京駅
【概説】
1914(大正3)年に開業した、建築家・辰野金吾の代表作である巨大な駅舎建築。赤レンガと白い石材を組み合わせた壮麗なルネサンス様式が特徴であり、近代国家としての日本の威信を示す首都の表玄関として建設された。
中央停車場建設計画と国家的威信
明治時代中期の東京における鉄道網は、東海道本線の起点である新橋駅と、日本鉄道の起点である上野駅という二つのターミナル駅に分断されていた。東京の都市機能を発展させるためには、この両者を結ぶ市街地高架鉄道の建設と、その中心となる「中央停車場」の設置が急務であった。
日清・日露戦争を経て列強の仲間入りを果たしつつあった明治政府は、帝都・東京の中心にふさわしい国家的モニュメントとしての駅舎建設を構想した。建設地には、皇居(宮城)の正面にあたる丸の内の陸軍練兵場跡地が選ばれ、国家の威信をかけた巨大プロジェクトが始動することとなった。
辰野金吾による「辰野式」建築の白眉
駅舎の設計は、日本銀行本店などを手掛けた明治建築界の重鎮・辰野金吾(たつのきんご)に委ねられた。辰野は、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルから学んだ西洋建築の技術と様式を日本の風土に適合させた人物である。
彼が設計した駅舎は、鉄骨煉瓦造の3階建てで、総延長は330メートルにも及ぶ長大なものであった。赤レンガの壁面に白い花崗岩の帯を巡らせる独自の意匠は、いわゆる「辰野式」ルネサンス様式と呼ばれ、壮麗さと堅牢さを兼ね備えていた。また、建物の南北両端には巨大な八角形のドーム屋根が設けられ、内部には精緻なレリーフが施された。さらに、駅舎の中央には天皇や皇族が利用するための皇室専用口が設けられており、天皇を中心とする当時の国家体制を色濃く反映した空間構成となっていた。
関東大震災の試練と東京大空襲による焼失
着工から約6年半の歳月を経て、大正改元後の1914(大正3)年に「東京駅」として開業した本駅舎は、1923(大正12)年の関東大震災においてその真価を発揮する。周囲の建物の多くが倒壊・焼失する中、辰野が松杭を密に打ち込むなどして施した強固な基礎構造により、東京駅はほとんど損害を受けず、避難所としても機能した。
しかし、1945(昭和20)年の東京大空襲(5月25日の空襲)では猛火に包まれ、象徴的であった南北のドーム屋根や3階部分、内装の大部分を焼失するという甚大な被害を受けた。終戦後の復興期においては、深刻な資金・資材不足のため完全な復旧は断念され、焼け残った2階部分の上に八角の寄棟(ピラミッド状)の屋根を架けるという、応急的な修復工事が行われた。
復原工事と文化財としての価値
戦後の高度経済成長期を経て、東京駅の周辺には近代的な高層ビルが次々と立ち並ぶようになった。一時は丸の内駅舎の取り壊しや高層化の計画も浮上したが、市民や有識者による保存運動が高まり、2003(平成15)年には国の重要文化財に指定された。
これを契機として、創建当時の姿を取り戻すための大規模な保存・復原工事が2007(平成19)年から開始された。現存するレンガ壁などの歴史的躯体を保存しつつ、最新の巨大地下免震システムを導入するという難工事の末、2012(平成24)年に失われていた3階部分と壮麗な南北のドーム屋根が復活した。現在の東京駅丸の内駅舎は、現代の巨大な交通結節点としての機能を果たしながらも、明治・大正期の近代国家の歩みと優れた建築技術を今に伝える貴重な歴史的遺産として存在し続けている。