五日市憲法草案(日本帝国憲法)

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五日市憲法草案 (いつかいちけんぽうそうあん)

1881年

【概説】
明治時代中期の1881年に、千葉卓三郎らが神奈川県多摩郡五日市(現在の東京都あきる野市)で起草した私擬憲法。地方の学習結社において自主的に作成された、民主的な憲法草案の代表格である。国民の自由や権利、とりわけ教育の自由や学習権などの人権保障が極めて詳細かつ先進的に規定されている点に特徴がある。

自由民権運動の興隆と私擬憲法の潮流

明治政府が1881年(明治14年)の明治十四年の政変に際して「国会開設の勅諭」を出し、10年後の国会開設を公約すると、民間ではどのような憲法を制定すべきかという議論が急速に活発化した。この時期に民間団体や個人によって自主的に作成された憲法の私案を私擬憲法と呼ぶ。

当時、都市部の知識人だけでなく、地方の豪農や知識層の間でも自主的な学習会や演説会が盛んに開かれていた。五日市憲法草案は、こうした地方の政治的・知的成熟を背景に、神奈川県多摩郡五日市の勧能学校教員であった千葉卓三郎らが中心となり、地域の指導層や青年らと結成した「学芸講談会」の議論を経て起草されたものである。

人権尊重と教育権を重視した先駆的内容

五日市憲法草案は全204条から構成され、そのうちの150条以上が国民の権利や義務(人権規定)に割かれている点が最大の特徴である。これはのちに制定される大日本帝国憲法が天皇大権を強調したのとは対極にあり、国民の権利を国家権力に先立つものとして位置づけていた。

特に、教育に関する規定(第134条など)では、子どもが教育を受ける権利や、国による一方的な教育統制を排した教育の自由が明記されており、近代教育のあり方を先取りするきわめて民主的な内容を含んでいた。また、基本的人権の保障だけでなく、信教の自由、さらには不法な公権力の行使に対する抵抗権や革命権を認めるような急進的な側面も有していた。

「土蔵」からの発見と歴史的意義

本草案は、制定当時に広く公表されることはなく、歴史の闇に埋もれていた。しかし、1968年、歴史学者の新井勝紘(当時・東京経済大学の学生)によって、五日市の深沢家(深沢名生)の土蔵から発見され、光が当てられることとなった。この発見は、日本の近代化が政府主導の「上からの近代化」だけでなく、地方の農村民衆や知識人が主体となった「下からの近代化」のエネルギーに支えられていたことを実証する貴重な史料として、日本近代史研究に大きな衝撃を与えた。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 伊能忠敬の全国測量をもとに、彼の死後に弟子たちによって完成され、幕府に献上された非常に精巧な日本地図の名称は何か?
Q. 元寇の危機に際し、幕府が異国警固役などに動員する権限を朝廷から得た、地頭が置かれていない荘園領主の完全な支配地を何というか?
Q. 和様書道を確立・完成させた、小野道風、藤原佐理、藤原行成の三人の書道の達人を総称して何というか。