三島通庸 (みしまみちつね)
【概説】
明治時代に山形、福島、栃木などの県令(現在の知事)を歴任した薩摩藩出身の官僚。「土木県令」や「鬼県令」の異名を持ち、強権的な地方行政を展開した人物。自由民権運動を敵視して激しい弾圧を行い、福島事件や加波山事件を誘発したことで知られる。
「土木県令」と呼ばれた強権的官僚
三島通庸は薩摩藩士から明治政府の官僚となり、地方行政の長として頭角を現した。彼は近代国家の基礎を作るためのインフラ整備を最重視し、山形県令時代には道路の開削や洋風建築の導入を急速に推し進めた。しかし、その事業資金や労働力は地元住民への過大な負担(課役や税)によって強引に賄われたため、独裁的・専制的な手法から「土木県令」、さらには「鬼県令」と呼ばれて恐れられた。彼の強硬な近代化政策は、地方の自治を否定し、中央集権体制の確立を急ぐ明治政府の意向を忠実に体現したものであった。
福島事件と自由民権派の弾圧
1882(明治15)年、三島は福島県令に就任した。当時、福島は自由党の指導者・河野広中らを中心に、自由民権運動が全国で最も盛んな地域の一つであった。三島は「民権派は政府の敵である」として徹底的な排除方針を掲げ、民権派が多数を占める県会(現在の県議会)を無視して、自らが主導する会津三方道路(会津から新潟・栃木・山形へ通じる道路)の建設事業を強行した。
この事業に伴う莫大な資金提供や強制労働に抗議した農民や自由党員に対し、三島は警察力を用いて弾圧。反対運動の先頭に立っていた河野広中ら幹部を「顛覆政府(政府転覆)の陰謀」を企てたとして逮捕・投獄した。これが福島事件であり、これによって東北地方の自由民権運動は一時的に壊滅的な打撃を受けることとなった。
栃木での専横と激化事件への発展
福島での弾圧実績を買われた三島は、1884(明治17)年に栃木県令を兼任(のちに専任)した。栃木でも同様に、宇都宮への県庁移転や道路建設などの大規模な土木事業を強行し、県民や自由党員への圧迫を続けた。
三島の妥協なき抑圧姿勢に対し、言論による抵抗の限界を感じた自由党の過激派は、実力行使による三島の暗殺を計画した。この計画は事前にもれたものの、実行犯らは茨城県の加波山に立てこもり、政府打倒を訴えて挙兵する加波山事件(1884年)を引き起こした。このように、三島の強権政治は民権運動を過激な「激化事件」へと向かわせる引き金となった。その後、三島はその冷徹な実務能力を評価され、1885年に内務省の警視総監に就任。1887年の保安条例制定などに際し、首都・東京における民権派の排除運動を主導した。