丁亥倶楽部

大同団結運動を具体的に推進するため、後藤象二郎を中心として1887年に結成された連絡組織は何か?
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【参考リンク】
2007年(Wikipedia)

丁亥倶楽部 (ていがいくらぶ)

1887年

【概説】
1887年(丁亥の年)に、後藤象二郎を中心とする旧自由党系の民権派が、大同団結運動を推進するために結成した政治結社・連絡組織。激化事件などで停滞していた自由民権運動を再結集させるための中心的な足場となった。

大同団結運動の勃興と結成の背景

1880年代半ば、松方デフレによる農民困窮や自由党の解党、激化事件などを経て、日本の自由民権運動は一時的に沈滞していた。しかし、内閣制の創設や条約改正交渉の失敗(井上馨による内地雑居案への反発)などを契機に、1886年頃から民権派の再結集を求める声が強まった。旧自由党の指導者であった後藤象二郎は「小異を捨てて大同に就く」というスローガンを掲げ、かつての党派の違いを越えて団結する大同団結運動を提唱した。

この大同団結運動の推進母体および連絡機関として、干支が「丁亥(ていがい)」にあたる1887(明治20)年、後藤の私邸に集まった有志によって結成されたのが丁亥倶楽部である。同倶楽部は、同時期に高まっていた地租軽減・言論の自由・条約改正の断行を求める「三大事件建白運動」とも結びつき、反政府運動の強力な政治的司令塔として機能し始めた。

保安条例による打撃と運動の変容

自由民権運動が再び全国的な高揚を見せるなか、明治政府はこの動きを抑え込むため、1887年12月に保安条例を制定した。これにより、星亨をはじめとする民権派の有力者や壮士が皇居の周囲三里(約12キロメートル)外へと追放され、大同団結運動は重大な打撃を受けた。これに伴い、運動の拠点であった丁亥倶楽部も実質的な活動停止を余儀なくされた。

その後、丁亥倶楽部の指導者であった後藤象二郎は、政府側の切り崩し工作に応じる形で1889年に黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣した。この首領の入閣は、大同団結運動を支持していた民権派内部に激しい分裂と対立をもたらすこととなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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