内閣総理大臣
【概説】
内閣の首長として国務大臣を統括し、日本の行政権の行使について最高の責任を負う官職。1885年(明治18年)の太政官制廃止に伴う内閣制度の発足によって創設され、初代は伊藤博文が就任した。
内閣制度の創設と太政官制の終焉
1885年(明治18年)12月22日、明治政府は近代国家としての統治機構を整備するため、飛鳥時代以来の律令制に基づく太政官制を廃止し、新たに内閣制度を創設した。この抜本的な政治改革を主導したのは伊藤博文である。伊藤はプロイセン(ドイツ)などの西洋諸国の制度を参考にしつつ、天皇を輔弼(ほひつ)する最高機関として内閣を位置づけ、自ら初代内閣総理大臣に就任した。これにより、各省庁の長たる大臣が内閣を構成し、総理大臣がそれを統率するという近代的な行政の枠組みが日本で初めて確立されることとなった。
大日本帝国憲法下の地位と「同輩中の首席」
1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法においては、意外なことに「内閣」や「内閣総理大臣」に関する直接的な明文規定は存在しなかった。第55条で「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と定められたのみであり、各大臣は天皇に対して個別に責任を負う形となっていた。内閣総理大臣の職務権限は、同年に制定された勅令「内閣官制」によって規定されたが、他の国務大臣に対する絶対的な指揮監督権を持たない「同輩中の首席」にとどまった。総理大臣は他の大臣の罷免権を持たなかったため、一人の大臣が政策に反発して辞表を提出し、後任が得られないだけで内閣全体が瓦解するという、構造的な脆弱性を抱えていた。
政党内閣の発展と軍部の台頭
明治後期から大正・昭和初期にかけて、内閣総理大臣の選出過程は大きな変遷をたどった。初期は長州・薩摩を中心とする藩閥の有力者が「元老」の推薦によって交代で就任していたが、大正デモクラシー期には政党政治が成熟し、衆議院の多数党の党首が総理大臣に推奏される「憲政の常道」が形成された。1918年(大正7年)の原敬による本格的な政党内閣の誕生はその象徴である。しかし、1932年(昭和7年)の五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されると政党内閣の時代は終焉を迎え、以後は軍人や官僚を中心とする挙国一致内閣が主流となった。「同輩中の首席」に過ぎない総理大臣の権限の弱さは、軍部大臣現役武官制などと相まって軍部の独走を抑止できず、国家が戦争へと突き進むのを止められない一因ともなった。
日本国憲法における権限強化と議院内閣制
太平洋戦争敗戦後、1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法により、内閣総理大臣の地位と権限は根本的に再構築された。旧憲法下の曖昧な地位から明確に「内閣の首長」と位置づけられ、国会議員の中から国会の議決によって指名される議院内閣制が確立した。さらに、国務大臣の任命権および任意の罷免権が憲法上に明記されたことで、行政各部を強力に指揮監督する権限を獲得した。これにより、内閣総理大臣は民主的基盤を持った国政の最高責任者としての地位を確立し、現代日本の政治において最も重要な役割を担うこととなったのである。