谷干城 (たにたてき)
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍した土佐出身の軍人、政治家。西南戦争において熊本城を死守した陸軍軍人として名を馳せ、内閣制度創設時には初代農商務大臣に就任した。のちに井上馨外相の妥協的な条約改正案に反対して農商務相を辞任し、以後は貴族院で「民力休養」を掲げるなど硬骨の保守派として活動した人物である。
幕末の志士から陸軍将官へ:西南戦争における熊本城死守
天保8(1837)年、土佐藩士の家に生まれた谷干城は、幕末期に板垣退助らとともに土佐藩の主流派として倒幕運動に身を投じた。戊辰戦争では東山道総督府参謀として軍功を挙げ、甲州勝沼の戦いや会津戦争で活躍。この際、日光東照宮を戦火から救ったエピソードでも知られる。
明治維新後は陸軍へと進み、明治10(1877)年に勃発した最大・最後の士族反乱である西南戦争において歴史的な役割を果たす。当時、熊本鎮台司令長官(陸軍少将)であった谷は、西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻に対し、加藤清正が築城した名城・熊本城に籠城。近代的な装備をもつ薩軍の包囲を約50日間にわたって耐え抜き、城を死守して政府軍反撃の足がかりを作った。この軍功により、谷は軍人として不動の名声を確立した。
初代農商務大臣への就任と条約改正問題での抗議辞任
軍政の要職を歴任した谷は、明治18(1885)年に日本初の内閣(第1次伊藤博文内閣)が組閣されると、土佐閥の代表として初代農商務大臣に就任した。しかし、当時の内閣の最重要課題であった条約改正交渉を巡り、内閣内で激しい対立が生じることとなる。
時の外務大臣・井上馨は、条約改正の条件として欧化政策(鹿鳴館外交)を推し進め、法権回復(領事裁判権の撤廃)の代償として「外国人判事の任用」を認めるという妥協案を提示していた。伝統主義・ナショナリズムの立場をとる谷は、この妥協案が国家の主権を侵害するものであるとして猛烈に反対。外遊から帰国後の明治20(1887)年に農商務大臣を辞任した。この谷の辞任は、政府批判を強めていた自由民権派やナショナリストによる「三大事件建白運動」を大いに勢いづかせ、最終的に井上の条約改正交渉を挫折に追い込む契機となった。
貴族院での「民力休養」と独自の保守政治
下野した谷は、明治23(1890)年の帝国議会開設にともない貴族院議員(勅選議員)となり、政界に復帰した。彼はかつての同郷である板垣退助らの自由民権運動とは一線を画し、藩閥(薩長)にも政党(民党)にも属さない「中正」の立場から政府を厳しく監視した。
特に日清戦争後の軍備拡張に伴う地租増徴(増税)に対しては、農民や地主の困窮を救うべきだとする「民力休養・政費節減」を主張して激しく反対した。これは衆議院の民党とも連携する動きとなり、藩閥政府の独善的な財政運営に対する強い牽制となった。谷は、国家の急速な近代化と軍事強化を急ぐ政府に対し、伝統的な道徳観と農本主義的な視点から警鐘を鳴らし続けた「硬骨の愛国者」であった。