朴泳孝 (ぼくえいこう)
【概説】
19世紀末から20世紀前半にかけて活動した、李氏朝鮮および大韓帝国の政治家。金玉均らとともに開化党(独立党)を組織し、日本の協力を得て近代化改革を目指した指導者。1884年に急進的なクーデターである甲申事変を起こしたが挫折し、その後は日本への亡命と祖国での国政参画を繰り返しながら激動の日朝関係を生きた。
開化運動の勃興と甲申事変の挫折
朴泳孝は李氏朝鮮の王族(第25代国王・哲宗の娘婿)という極めて高い名門の出身でありながら、早くから近代化の必要性を痛感し、金玉均や徐光範らとともに急進的な改革を志向する開化党(独立党)を組織した。彼らは、清国への従属維持をはかる保守派(事大党)に対抗し、日本の明治維新を手本とした近代国家への脱皮を企てた。
1884年、清仏戦争の勃発によって清国の朝鮮駐留軍が半減した好機を捉え、開化党は日本公使館の協力を得てクーデターを断行した(甲申事変)。新政権で軍事部門の要職に就いた朴泳孝であったが、袁世凱率いる清国軍の迅速な介入により、わずか3日間で政権は崩壊。朴は金玉均らとともに日本への亡命を余儀なくされた。
甲午改革への参画と再度の政変
約10年に及ぶ日本での亡命生活ののち、1894年に日清戦争が勃発すると、朝鮮における日本の影響力が急速に高まった。これに伴い、朴泳孝は日本政府の後押しを得て帰国を果たし、親日派の金弘集内閣において内務大臣に就任した。
朴泳孝は、近代的制度の導入を目指す「甲午改革」の推進役として辣腕を振るったが、改革の急進性は親露派や閔妃をはじめとする宮廷保守勢力との激しい摩擦を生んだ。さらに後ろ盾であった日本側(井上馨公使)との関係もこじれ、謀叛の嫌疑をかけられたことで、1895年に再び日本へと逃れざるを得なくなった。この二度目の亡命は10年以上に及ぶこととなった。
日韓併合後の軌跡と評価
1907年にようやく赦免されて帰国した朴泳孝は、大韓帝国の宮内大臣などを歴任した。しかし、すでに朝鮮の主権は日本によって剥奪されつつあり、1910年の韓国併合を迎えることとなる。
併合後、朴泳孝は日本政府から「侯爵」の爵位を授与され、朝鮮貴族として優遇される道を選んだ。晩年は東亜日報の初代社長を務めるなど言論・実業界で活動する一方、中枢院副議長や貴族院議員に勅選されるなど、植民地支配体制に組み込まれた。近代朝鮮における先駆的な開明思想家・改革者であった一方で、最終的に親日派の巨頭となったその足跡は、現代の韓国においても複雑な評価を与えられている。