清仏戦争

1884年、ベトナムの宗主権をめぐって清国とフランスの間で勃発し、この隙を狙って朝鮮で甲申事変が起こる背景となった戦争は何か?
カテゴリ:
重要度
★★★

【参考リンク】
清仏戦争(Wikipedia)

清仏戦争

1884〜1885年

【概説】
1884年から1885年にかけて、ベトナムの支配権(宗主権)をめぐって清国とフランスの間で発生した戦争。軍事力に勝るフランスが勝利し、敗れた清国はベトナムへの宗主権を放棄してフランスの保護国化を承認した。この清国の隙を突き、朝鮮半島では日本と結んだ開化派による甲申事変が勃発するなど、東アジアの国際秩序と日本の対大陸政策に多大な影響を与えた。

フランスのインドシナ進出と清国の反発

19世紀後半、帝国主義的進出を強めていたフランスは、インドシナ半島における権益拡大を図り、ベトナム(阮朝)への干渉を強めていた。1883年のユエ条約(フエ条約)などによってフランスがベトナムを実質的な保護国とすると、伝統的にベトナムに対する宗主権を有していた清国はこれに強く反発した。ベトナム側も清国に援助を求め、清国軍や劉永福率いる黒旗軍がトンキン(ベトナム北部)などでフランス軍と衝突を繰り返すようになった。事態の打開を図る交渉も決裂し、1884年8月、両国は宣戦布告なきまま全面的な戦争状態に突入した。

軍事衝突の経過と天津条約の締結

戦端が開かれると、近代化を進めていたフランス軍が軍事的な優位を見せつけた。特に海戦においては、フランス極東艦隊が清国の福建水師(海軍)を馬江海戦で壊滅させ、台湾や澎湖諸島を封鎖・占領するなど圧倒した。一方、陸戦においては清国軍や黒旗軍がゲリラ的な抵抗を見せ、局地的な勝利を収める場面もあったが、海軍力と近代兵器に勝るフランスの優位は揺るがなかった。
最終的に、戦争の長期化を嫌った両国はイギリスの仲介によって講和に動き、1885年6月に天津条約(清仏天津条約)が締結された。この条約により、清国はフランスがベトナムと結んだ諸条約を承認し、ベトナムに対する長年の宗主権を完全に放棄することとなった。

日本への波及と甲申事変の勃発

清仏戦争は、当時の日本や朝鮮半島の情勢にも決定的な影響を及ぼした。当時、朝鮮では清国に依存して保守的な政策をとる事大党(閔氏政権)と、日本の明治維新をモデルに急進的な近代化を目指す独立党(開化派)が激しく対立していた。1884年、清国がフランスとの戦争に忙殺され、朝鮮駐留の清国軍の半数がベトナム方面へ移動したという情報を得た独立党の金玉均らは、これを千載一遇の好機と捉えた。
同年12月、独立党は日本の竹添進一郎公使の軍事的支援を受けてクーデターを実行し、新政権の樹立を宣言した(甲申事変)。しかし、朝鮮に残存していた袁世凱率いる清国軍が迅速に武力介入したため、クーデターはわずか3日で失敗に終わった。日本軍は清国軍に圧倒されて撤退を余儀なくされ、日本国内では清国に対する反発と敵対感情が一気に高まることとなった。

東アジア国際秩序の転換と日本の動向

清仏戦争における清国の敗北は、東アジアにおいて古くから続いていた華夷秩序(冊封体制)の崩壊を象徴する出来事であった。清国がベトナムという重要な朝貢国を失ったことは、その国際的威信を大きく失墜させた。
また、日本国内においては、清国が西洋列強に対抗し得ないことが露呈したことや、甲申事変における清国軍の圧倒的な介入を見せつけられたことから、清国との連帯を諦め、日本単独での近代化と富国強兵を急ぐべきだとする世論が形成された。1885年に福沢諭吉が発表したとされる「脱亜論」は、こうした時代背景のもとで執筆されたものである。清仏戦争とその余波としての甲申事変は、日清両国の対立を決定的なものとし、約10年後に勃発する日清戦争へと至る東アジアのパワーバランス転換の重要な画期となったのである。

清朝と近代世界――19世紀〈シリーズ 中国近現代史 1〉 (岩波新書) (岩波新書 新赤版 1249 シリーズ中国近現代史 1)

西洋との激突を経て変容する清朝の姿を、広範な史料と多角的な視点から精緻に解き明かす歴史探求の書。

世界の歴史 14 (中公バックス)

イスラーム世界の繁栄から大航海時代、革命の連鎖に至るまで、人類の壮大な変遷を俯瞰する格好の歴史読本。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 全国の米の標準価格(相場)を決定した、大坂に設けられた世界最古の先物取引市場はどこか。
Q. お雇い外国人として来日し、刑法や治罪法、民法典の草案を作成するなど、日本の近代法学の基礎を築いたフランス人は誰か?
Q. 中宮寺に安置されている、クスノキを材とし、かすかな微笑み(アルカイックスマイル)を浮かべて物思いにふける優美な黒光りする仏像は何か?