天津条約 (てんしんじょうやく)
【概説】
1885年(明治18年)、甲申事変の事後処理として日本と清国の間で結ばれた条約。日本の全権である伊藤博文と清国の李鴻章との間で締結され、日清両軍の朝鮮からの共同撤兵や、将来的な出兵時の相互事前通告などを取り決めた。
条約締結の背景:甲申事変と高まる日清の緊張
1884年(明治17年)、朝鮮の近代化と清国からの独立を目指す金玉均や朴泳孝ら急進開化派(独立党)が、日本の軍事的支援を背景にクーデターを起こし、一時的に政権を奪取した(甲申事変)。しかし、朝鮮の宗主国を自任する清国が、袁世凱率いる駐留軍を迅速に介入させたため、クーデターはわずか3日で失敗に終わった。この過程で日本公使館は焼き討ちに遭い、日清両国の軍隊が直接交戦する事態が生じた。
事変後、日本国内では清国に対する強硬論が沸騰し、日清戦争勃発の危機が急激に高まった。しかし、当時の日本はまだ軍備拡張の途上にあり、大国である清国と全面戦争を行う実力は不足していた。一方の清国も、フランスとの間に清仏戦争を抱えており、朝鮮半島で日本と戦う余裕を持たなかった。こうして両国は、武力衝突を回避し、外交交渉による事態の収拾を図ることとなった。
伊藤博文と李鴻章による天津交渉
1885年、日本政府は事態の平和的解決と朝鮮半島における日本の権益を確保するため、参議・宮内卿であった伊藤博文を全権大使として清国に派遣した。清国側の全権は、外交や軍事を実質的に取り仕切っていた直隷総督兼北洋大臣の李鴻章であった。
交渉の舞台となった天津において、伊藤は日清両軍の武力衝突の責任を清国側に追及しつつ、朝鮮からの両国軍の撤退を強硬に主張した。李鴻章は当初、朝鮮に対する清国の伝統的な宗主権を盾に日本の要求を退けようとしたが、伊藤の粘り強い交渉と、清仏戦争での劣勢という清国側の苦しい事情も相まって譲歩を余儀なくされ、同年4月に天津条約が調印された。
条約の主要な内容と歴史的意義
天津条約の主な取り決めは以下の3点であった。
第一に、日清両国の軍隊を朝鮮から4ヶ月以内に完全撤退させること。
第二に、朝鮮国王に対し、自国の軍隊を訓練するための教官として日清両国以外の外国人を雇用するよう勧告すること。
第三に、将来朝鮮で内乱などの重大な事態が発生し、日清のいずれか(あるいは双方)が派兵する際には、事前にもう一方へ文書で通告すること(出兵の相互照会)である。
この条約の最大の意義は、日本が朝鮮半島において清国と同等の派兵権を獲得した点にある。それまで朝鮮を「属邦」として扱い、独占的な影響力を持っていた清国の優位性を崩し、日本が将来的に朝鮮へ軍事介入する法的な根拠と対等な権利を築いたことは、明治外交における重大な転換点であった。
日清戦争の直接的な導火線へ
天津条約によって日清間の武力衝突は一時的に回避され、両国は約10年間の「休戦期間」を得ることとなった。この間、日本はきたるべき対清戦争を想定して猛烈な軍拡を推し進め、国力の充実に努めた。
そして1894年(明治27年)、朝鮮南部の農民たちが減税や排日などを掲げて蜂起した甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発する。反乱の鎮圧に手を焼いた朝鮮政府が清国に援軍を要請すると、清国は天津条約の規定に基づいて日本に出兵を通告した。日本もこれに対抗し、居留民保護を名目として即座に条約に基づく出兵権を発動させ、大規模な軍隊を朝鮮半島に派遣した。結果として、平和解決のために結ばれた天津条約の「相互派兵」の規定が、朝鮮半島への両軍同時展開を招き、そのまま日清戦争を引き起こす直接的な導火線となったのである。