加藤弘之 (かとうひろゆき)
【概説】
幕末から明治期にかけて活躍した官僚、思想家、教育家。初期は明六社に参画して天賦人権論を啓蒙したが、のちに社会ダーウィニズム(社会進化論)に転じて国家主義を唱え、明治政府の理論的支柱となった知識人。
1. 啓蒙思想家としての出発と「天賦人権論」
但馬国(現在の兵庫県)の藩士の家に生まれた加藤弘之は、幕末期に蕃書調所などで洋学、特にドイツの国法学を学んだ。明治維新後は新政府に出仕し、1873年(明治6年)には森有礼や福沢諭吉、西周らとともに明六社を結成して、西欧の近代思想を日本に紹介する啓蒙運動の先頭に立った。
この時期の加藤は、著書『真政大意』(1870年)や『国体新論』(1874年)において、人間が生まれながらにして自由と平等の権利を持つという天賦人権論を日本にいち早く紹介し、専制政治を批判した。しかし、彼の思想の根底には常に国家の秩序と維持を最優先するドイツ流の国家学があり、自由民権運動が過激化するにつれて、民権論に対する警戒感を強めていくこととなる。
2. 『人権新説』の刊行と社会進化論への転向
1881年(明治14年)、加藤は『人権新説』を著し、それまで自らが主張していた天賦人権論を「妄想」であるとして真っ向から否定し、世間に大きな衝撃を与えた。彼はダーウィンの生物進化論を社会学に応用した社会ダーウィニズム(社会進化論)を導入し、人類社会も生物界と同様に「適者生存」「優勝劣敗」の自然法則に支配されていると主張した。
この理論に基づき、加藤は「人権とは生まれながらに持つものではなく、国家の法制度(実定法)によって初めて付与されるもの(実定人権論)」であり、強者が弱者を支配するのは自然の法則であると論じた。この転向は、当時激化していた自由民権運動の理論的基盤(天賦人権論)を根底から崩すものであり、政府による民権運動弾圧や、天皇主権を中心とする絶対主義的な国家体制(のちの大日本帝国憲法体制)を擁護する強力な理論的武器となった。
3. 帝国大学初代総長と近代教育への貢献
加藤は学政・教育の分野でも重きをなし、東京開成学校と東京医学校が統合されて誕生した旧東京大学の法・理・文三学部綜理(のちの総長)に就任した。さらに、1886年に帝国大学官制が敷かれると、帝国大学(のちの東京帝国大学)の初代総長となり、日本の高等教育の基盤を確立した。
彼の指導のもと、大学は国家に奉仕する有能な官僚や技術者を養成する機関としての性格を強め、学問の自律性よりも「国家への有用性」が重視される学風が築かれた。加藤の思想的転向と学界での支配的地位は、日本の近代アカデミズムが国家主義・官僚主義と深く結びつく一因となった。