東京専門学校
【概説】
1882年(明治15年)に大隈重信が東京府下早稲田の地に設立した私立学校。官学中心の教育体制に対し「学問の独立」を建学の精神に掲げ、のちの早稲田大学の母体となった。
設立の背景と「明治14年の政変」
1881年(明治14年)、政府内で国会開設時期や憲法制定方針をめぐって激しい対立が生じた。この際、急進的なイギリス流議院内閣制の導入を主張した参議の大隈重信が、伊藤博文らによって政府から追放される「明治14年の政変」が勃発した。下野した大隈は、10年後の国会開設に向けて政党(立憲改進党)を結成すると同時に、政府の官僚養成機関である東京大学(のちの帝国大学)に対抗し、国家権力に依存しない在野の有為な人材を育成する必要性を痛感した。
こうして翌1882年(明治15年)、大隈の盟友であった小野梓や、東京大学出身の青年学徒たち(高田早苗、天野為之、坪内逍遥ら)の尽力を得て設立されたのが東京専門学校である。当初は政治経済学科、法律学科、理学科、英学科の4科が設置された。
「学問の独立」と日本語による高等教育
東京専門学校は、建学の精神として「学問の独立」を掲げた。これは、当時の学問が国家権力に追従しがちであったことへの反省から、学問を政治的干渉から解放し、自由で科学的な真理の探究を目指すものであった。
同校の歴史的に特筆すべき特徴は、日本語(邦語)による高等教育を実践した点にある。当時の東京大学や他の多くの私学では、外国人教師による外国語での授業が主流であった。しかし、東京専門学校では翻訳書を積極的に作成・活用し、自国語で近代的な学問を教授する方針を採った。これにより、語学の習得に膨大な時間を割く余裕のない地方の青年や庶民層にも広く学問の門戸を開くという、画期的な役割を果たしたのである。
政府の圧迫と独自の学校運営
大隈重信が野党である立憲改進党の党首であったことから、設立当初の東京専門学校は政府から「反政府的である」と強い警戒を受けた。世間からは「早稲田の逆賊学校」などと揶揄され、集会条例などの弾圧法規によって監視の対象とされたほか、判事や検事などの官吏が同校の講師を務めることが禁じられるといった露骨な妨害工作を受けた。
しかし、大隈や小野らはこれに屈することなく学校運営を継続した。特に、講義録を全国に配布する「校外生制度」を創設したことは重要である。これにより、東京に通うことのできない地方の青年たちにも独学の機会を提供し、全国的な影響力を獲得するとともに、学校の経営基盤を支える大きな要因となった。
早稲田大学への発展と歴史的意義
学校の規模拡大とカリキュラムの充実に伴い、東京専門学校は日本の私立高等教育機関として確固たる地位を築いていった。1902年(明治35年)、創立20周年を機に「早稲田大学」と改称し、大学部と専門部を置いた。さらに1920年(大正9年)には、原敬内閣のもとで制定された大学令に基づき、福沢諭吉の創設した慶應義塾大学などとともに、私立大学として初めて正式な大学として認可された。
国家の枠にとらわれない在野精神と反骨精神を重んじた東京専門学校の存在は、近代日本において官僚や特権階級に偏りがちだった教育を大衆に開かれたものへと変革し、日本の私学教育の発展と近代化に多大な貢献を果たしたのである。