日新真事誌 (にっしんしんじし)
【概説】
明治初期にイギリス人のジョン・レディー・ブラックが東京で創刊した日本語の日刊新聞。1874(明治7)年に「民撰議院設立建白書」を他に先駆けて掲載し、自由民権運動の導火線となったことで知られる。明治政府による言論弾圧や外国人への対策の中で、わずか3年ほどで廃刊に追い込まれた。
お雇い外国人が生んだ近代ジャーナリズム
明治維新直後の日本において、新聞は政府の布告を伝えるものや海外ニュースの翻訳が主流であり、独自の言論や批評を展開するメディアは未成熟であった。こうした中、1872(明治5)年にスコットランド出身のジャーナリスト、ジョン・レディー・ブラック(快楽)によって『日新真事誌』が創刊された。
ブラックは、当時の日本が結んでいた不平等条約による治外法権を利用し、日本政府の直接的な検閲や干渉を受けることなく自由な編集活動を行った。同紙は、単なる事実報道にとどまらず、社説を掲載して政府への提言を行うなど、日本における本格的な政論新聞の先駆けとなった。
「民撰議院設立建白書」のスクープと自由民権の先導
『日新真事誌』の歴史的意義を決定づけたのが、1874(明治7)年1月18日の記事である。明治六年の政変で下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが左院に提出した「民撰議院設立建白書」の全文を、同紙はいち早く掲載した。
一部の特権官僚が権力を握る「有司専制」を批判し、民撰の議院(国会)開設を求めたこの建白書が広く社会に公開されたことで、日本の言論界は大いに活性化された。これ以降、他紙も政治論議を盛んに行うようになり、自由民権運動が全国的な高まりを見せる契機となった。
明治政府の画策と『日新真事誌』の終焉
治外法権を盾に自由な言論を展開し、民権運動を支援する『日新真事誌』に対し、明治政府は強い警戒感を抱いた。日本人に対しては行政処分や刑事罰を科すことができたが、外国人であるブラックには日本の法律を適用できなかったためである。
そこで政府は、ブラックを政府の立法諮問機関である「左院」の雇(顧問)として高給で召し抱えるという懐柔策を講じた。この雇用契約には「自らの新聞に寄稿・関与しないこと」という条件が含まれており、ブラックは事実上、新聞の経営から引き離されることとなった。その後、政府は1875(明治8)年に新聞紙条例や誹謗律を制定して言論弾圧を本格化させ、外国人が邦字新聞を発行することを禁止した。これによって後ろ盾を失った『日新真事誌』は、同年に廃刊を余儀なくされた。