音楽取調掛 (おんがくとりしらべがかり)
【概説】
学校教育への西洋音楽の導入と指導者の育成を目指し、1879(明治12)年に文部省内に設置された機関。アメリカ留学から帰国した伊沢修二らの建議によって設立され、のちの東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)へと発展した。近代日本における音楽教育および洋楽受容の出発点となった組織である。
設置の背景と伊沢修二の建議
明治政府は1872(明治5)年に「学制」を制定し、近代的な学校制度をスタートさせた。この際、小学校の教科の中に「唱歌(しょうか)」が盛り込まれていたものの、当時の日本には西洋音楽を指導できる人材も、教科書となる楽譜も存在しなかったため、実際には授業が行われない有名無実な状態が続いていた。
この状況を打破すべく動いたのが、アメリカのボストン・マサチューセッツ州立師範学校に留学し、現地の音楽教育に感銘を受けた伊沢修二であった。伊沢は帰国後の1879年、同じく留学仲間であった目賀田雅周(めかたまさたか)と連名で「音楽取調方法言上書」を文部大臣に提出した。この建議が認められ、同年10月に文部省内に「音楽取調掛」が設置され、伊沢がその責任者(御用掛、のちに委員長)に就任した。
メーソンの招聘と「和洋折衷」の試み
伊沢は、自身の師であったアメリカの音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メーソンをお雇い外国人として招聘した。メーソンはピアノやオルガンなどの楽器を日本に持ち込み、音楽取調掛の伝習生たちに西洋の音楽理論や歌唱法、演奏技術を熱心に指導した。
音楽取調掛が目指したのは、単なる西洋音楽の直輸入ではなく、日本の伝統音楽(雅楽や俗楽)と西洋音楽を融合させた、日本人のための新しい音楽(和洋折衷)の創出であった。この方針のもと、日本の伝統的な音階と西洋の五線譜・和声理論を組み合わせる研究が進められた。
『小学唱歌集』の刊行と近代音楽の普及
音楽取調掛の最大の具体的成果が、1881(明治14)年から刊行された日本初の官撰教科書『小学唱歌集』の編纂である。ここには、スコットランド民謡に日本語の歌詞をのせた「蛍の光」や「仰げば尊し」、ドイツ民謡を原曲とする「むすんでひらいて」など、今日でも広く歌い継がれる唱歌が多数収録された。
その後、音楽取調掛は1887(明治20)年に東京音楽学校へと改組され、日本における西洋音楽の最高府として数多くの音楽家や指導者を輩出することとなった。音楽取調掛による一連の試みは、それまで口伝や伝統芸能中心であった日本の音楽環境を大きく変容させ、五線譜を用いた近代的な音楽感覚を国民全体に浸透させる決定的な契機となった。