脂派

明治初期の洋画において、高橋由一や浅井忠らのように、暗褐色(ヤニ色)を多用する重厚で写実的な画風を特徴としたグループを何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

脂派 (明治初期~中期)

【概説】
明治初期の日本洋画壇における、褐色や黄土色を多用した重厚で暗い画風を特徴とした画家グループの通称。高橋由一や浅井忠らがその代表として知られる。後にフランスから帰国した黒田清輝らの明るい「外光派(紫派)」と対比され、旧派としてこのように呼ばれるようになった。

工部美術学校とフォンタネージの写実主義

日本の本格的な西洋画(洋画)の受容は、幕末から明治初期にかけて急速に進んだ。その決定的な画期となったのが、1876年(明治9年)に政府が設立した工部美術学校である。同校の画学科教師としてイタリアから招聘された画家アントニオ・フォンタネージは、ヨーロッパのバルビゾン派の流れを汲む本格的な写実主義の技法を日本にもたらした。

フォンタネージは、自然の光と影、湿潤な空気感を表現するため、茶褐色や黄土色の地塗りを活かした明暗法(キアロスクーロ)を徹底して指導した。この教えを受けた浅井忠や小山正太郎らは、日本の風景や風土を、落ち着いた暗褐色主体のトーンで描き出すこととなる。また、同校創設以前に英国人ワーグマンに師事し、独自の写実的油彩表現を追求していた高橋由一(『鮭』『花魁』の作者として著名)の作風も、この重厚な暗褐色を基調とするスタイルに合流するものとして位置づけられる。

「外光派(紫派)」との対立と名称の由来

「脂派(やに派)」という名称は、彼ら自身が自称したものではなく、明治20年代後半以降に生じた洋画壇の分裂と論争の中で生まれた一種の俗称(揶揄)である。1893年(明治26年)、フランス留学から帰国した黒田清輝や久米桂一郎は、当時のヨーロッパで主流となっていた印象派風の明るい光の表現(外光派)を日本に紹介した。彼らは陰影に黒や褐色を使わず、青や紫を用いることで、日本の洋画に明るく清澄な色彩をもたらした。

この黒田らの新風は「新派」、あるいは陰影に用いた色彩から「紫派」と呼ばれ、美術界にセンセーションを巻き起こした。これに対し、従来のフォンタネージの流れを汲む明治美術会系の画家たちは「旧派」と目されるようになり、タバコのヤニのように粘り気のある暗褐色を多用するその画風から、新派側によって「脂派」と皮肉を込めて呼ばれるようになった。この対立は、1896年の白馬会の結成や、東京美術学校における黒田らの洋画科新設によって、新派(紫派)優位の時代へと移り変わっていく。

日本近代美術史における「脂派」の歴史的意義

明治中期以降、日本の洋画界は黒田清輝らの外光派が主流を占めるようになり、脂派は一時「時代遅れの美術」として日陰に追いやられることとなった。しかし、彼らの歩みは単なる旧弊なスタイルに留まるものではなかった。

脂派の画家たちは、西洋から導入されたばかりの「油絵」という未知の媒体を用い、いかにして日本の風土や現実をキャンバス上に定着させるかという、きわめて真摯な課題に向き合っていた。高橋由一の徹底した物質への凝視や、浅井忠の『収穫』に見られる農村の哀愁や大気の表現は、外光派の華やかな色彩とは異なる、深く重みのあるリアリズムの極致であった。近年では、日本の近代洋画における堅実な写実表現の出発点として、その確かな描写力と精神性が再評価されている。

近代洋画の開拓者 高橋由一展 公式図録

日本の油絵の黎明期を切り拓いた先駆者の全貌を捉え、その挑戦の軌跡を貴重な図版とともに深く探究できる一冊。

日本美術史の近代とその外部 (放送大学教材)

西洋美術の受容と日本美術の変容を歴史的視点から紐解き、近代化の過程で生じた複雑な構造を鋭く解明する書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 陰陽道の基礎となった、万物は陰と陽の二つの気と、木・火・土・金・水の五つの要素から成り立っているとする中国の思想を何というか。
Q. 弥生時代の九州北部で特によく見られる、大型の壺や甕を合わせ口にして死者を葬った墓制を何というか?
Q. 独学で日本全国の植物を採集して新種を次々と発見し、『大日本植物志』などを著して「日本の植物学の父」と呼ばれた人物は誰か?