来島恒喜 (くるしまつねき)
1859年〜1889年
【概説】
明治時代の右翼運動家、国家主義団体「玄洋社」の社員。外相・大隈重信が進める条約改正交渉における妥協的な内容に憤慨し、大隈を爆弾で襲撃して右脚切断の重傷を負わせた人物。襲撃直後にその場で自害を遂げた。
玄洋社と条約改正問題の緊迫
福岡藩士の家に生まれた来島恒喜は、頭山満らが結成したアジア主義・国家主義団体である玄洋社に加入し、国権論者として活動した。当時、明治政府にとって不平等条約の改正は悲願であったが、1888年に外相に就任した大隈重信が進めた改正交渉は、大審院(現在の最高裁判所)に外国人判事を任用するという妥協的な内容を含んでいた。この方針がロンドンのタイムズ紙に報道されて日本国内に伝わると、日本の司法権を侵害するものとして、政府内の保守派のみならず、民権派や国粋主義メディアから激しい反発が巻き起こった。
大隈重信襲撃と政治的余波
1889年(明治22年)10月18日、来島は外務省からの帰路にあった大隈重信の馬車に対して爆弾を投げつけた。大隈は一命を取り留めたものの、右脚切断という重傷を負い、来島はその直後に持参していた短刀で自らの喉を突いて自害した。このテロリズムにより、大隈が進めていた条約改正交渉は完全に頓挫し、当時の黒田清隆内閣は総辞職を余儀なくされた。来島の死後、国家主義者たちの間では、身を挺して国難を救った「烈士」として称賛・神格化され、近代日本における政治的テロリズムの先駆的な事例となった。