青木周蔵 (あおきしゅうぞう)
【概説】
明治期の外交官、政治家。第1次山県有朋内閣の外相としてイギリスとの条約改正(領事裁判権撤廃)交渉に尽力し、対等な国際関係の樹立に奔走した人物。しかし、交渉の妥結寸前に発生した大津事件の責任を取って辞任を余儀なくされ、悲願の達成は後任の陸奥宗光へと引き継がれることとなった。
ドイツ留学と外交官としての台頭
青木周蔵は1844年、長門国(現・山口県)の藩医の家に生まれた。藩費によるドイツ(プロイセン)留学を経て、医学から法学・政治学へと転向。現地の貴族女性と結婚するなどドイツ社会に深く同化し、当時のビスマルク流の国家主義・外交手法を深く吸収した。このドイツとの強固なネットワークが、後の彼の外交官としてのキャリアの基盤となる。
帰国後は外務省に入り、駐独公使などを歴任。当時の外務大臣・井上馨が進める鹿鳴館に代表される欧化政策や条約改正交渉を、実務面から支えて頭角を現していった。
条約改正交渉の進展と大津事件による挫折
1889年、第1次山県有朋内閣の外務大臣に就任した青木は、かつての大隈重信外相による交渉挫折の反省を踏まえ、領事裁判権の完全撤廃を最優先課題に掲げた。当時、ロシアの東アジア進出を警戒していたイギリスとの利害が一致したこともあり、交渉は急速に進展。青木はイギリス側との合意文書調印の手前まで漕ぎ着けた。
しかし1891年5月、来日中のロシア皇太子ニコライが滋賀県大津市で警察官・津田三蔵に襲撃される大津事件が発生する。ロシアとの衝突を恐れた政府は、犯人への死刑適用(大逆罪の類推適用)を司法に強く求めたが、大審院長・児島惟謙は「法の支配」と司法の独立を守り、無期徒刑の判決を下した。この一連の混乱の外交的責任を問われる形で、青木は外相を引責辞任。これにより、イギリスとの条約改正交渉は一時中断を余儀なくされた。この成果は、のちに1894年の日英通商航海条約調印を成し遂げる陸奥宗光外相へと引き継がれることとなる。
再登板と近代日本外交への遺産
その後も青木は外交の第一線で活躍し、1898年に発足した第2次山県有朋内閣で再び外務大臣に就任した。1900年に清国で発生した義和団事件(北清事変)に際しては、列強からの要請に応じて日本軍の積極的な大軍派遣を決定。この迅速な対応により日本は国際的な評価を高め、のちの日英同盟(1902年締結)への重要な布石を打つことに成功した。
青木は時に独断専行の傾向があり、政府中枢と摩擦を起こすこともあったが、彼の高い語学力と国際人脈、そして徹底した現実主義的な外交感覚は、近代日本が欧米列強と対等な主権国家として国際社会に不平等条約を改めて認めさせる過程において、極めて重要な役割を果たした。