第1次松方正義内閣
【概説】
1891年5月に成立した、薩摩閥の松方正義を首班とする藩閥内閣。第2回帝国議会において予算案を巡り民党と激しく対立し、日本憲政史上初となる衆議院解散を断行した。翌年の総選挙では政府主導による大規模な流血の選挙干渉を行ったが失敗に終わり、閣内不一致により短期間で総辞職に追い込まれた。
初期議会における民党との衝突と「蛮骨演説」
明治憲法下の初期議会において、藩閥政府は「超然主義」(政党の意向に左右されずに政策を遂行する立場)を掲げていた。これに対し、衆議院で多数を占める立憲自由党や立憲改進党などの民党は、「民力休養・政費節減」をスローガンに掲げ、政府の軍事費拡張予算案を厳しく削減しようとした。
第1次山県有朋内閣の後を継いだ第1次松方正義内閣は、第2回帝国議会において再び予算案を巡って民党側と激突した。この最中、海軍大臣の樺山資紀が衆議院の壇上で、薩長藩閥の功績によって今日の国家の安全があると言い放った「蛮骨演説(蛮勇演説)」を行い、議会は決定的に紛糾。妥協の余地を失った松方首相は、1891年12月、日本の憲政史上初となる衆議院解散に踏み切った。
史上最悪の選挙干渉と内閣の崩壊
解散を受けて1892年2月に実施された第2回衆議院議員総選挙において、松方内閣の品川弥二郎内務大臣や白根専一内務次官らは、民党の台頭を力ずくで抑え込むため、警察官や地方官吏を動員した過酷な選挙干渉を行った。民党系の候補者や支持者に対して、買収、脅迫、暴力行為が公然と行われ、全国で死者25人、負傷者380人以上を出す大惨事となった。
しかし、このなりふり構わぬ弾圧にもかかわらず、選挙結果は民党側が過半数を維持し、政府の企ては失敗に終わった。この強硬策に対しては、政府内部からも大蔵大臣の渋沢栄一(就任辞退)の後を継いでいた高島鞆之助らや、元勲の伊藤博文らから強い批判が沸き起こった。結果として品川内相は辞職に追い込まれ、閣内の対立が激化した松方内閣は、政局を維持できず1892年8月に総辞職を余儀なくされた。この後、政局の調停のために第2次伊藤博文内閣が組織されることとなる。