第4回帝国議会 (だいよんかいていこくぎかい)
【概説】
明治中期、第2次伊藤博文内閣のもとで開かれた4回目の帝国議会。軍艦建造費などをめぐる藩閥政府と民党の対立に対し、明治天皇が「和衷協同の詔書」を下して妥協を促した。初期議会における最大の緊迫場面であり、天皇の政治的権威によって予算案が成立した出来事である。
1. 内閣と民党の正面衝突:軍艦建造費をめぐる攻防
1890年に開設された帝国議会では、薩長藩閥主導の政府と、衆議院の過半数を占める民党(自由党・立憲改進党など)が激しく対立していた。民党は「民力休養・政費節減」を掲げて政府の予算案削減を要求し、対する政府は「超然主義」をとって妥協を拒み続けていた。
1892年、元勲たちを網羅した「元勲内閣」である第2次伊藤博文内閣が発足し、同年11月に第4回帝国議会が召集された。伊藤内閣は、東アジア情勢の緊迫化を背景に、海軍力強化を目的とした軍艦建造費などを盛り込んだ積極予算案を提出した。しかし、これに対して衆議院の民党側は、約1割(約880万円)もの大幅な予算削減案を提示して真っ向から対立。議会は完全にデッドロック(膠着状態)に陥り、解散か内閣総辞職かという危機的状況を迎えた。
2. 天皇の政治介入:「和衷協同の詔書」の提示
この危機的状況を打開するため、首相の伊藤博文は、憲法制定者としての自らの信念であった「超然」を一時的に棚上げし、明治天皇の聖断(政治的決断)を仰ぐという異例の手段に出た。これに応じ、1893年2月10日に下されたのが和衷協同(わちゅうきょうどう)の詔書である。
この詔書の中で明治天皇は、国家の防衛(海防)の急務を説くと同時に、自らの宮廷費(内廷費)から毎年30万円を6年間にわたって下賜し、さらに文武官の俸給(給与)の1割を削減して軍艦建造費に充てるよう命じた。そして、政府と議会に対して「和衷協同」して国家の難局にあたるよう促したのである。天皇自らが身を切る姿勢を示したことにより、天皇への忠誠を絶対とする民党側は予算削減の主張を撤回せざるを得なくなり、結果として軍艦建造費を含む予算案はほぼ政府の要求通りに成立することとなった。
3. 歴史的意義:超然主義の限界と日清戦争への道
第4回帝国議会における妥協は、日本近代史において極めて重要な意味を持つ。第一に、この時可決された軍艦建造費によって、海軍の主力艦(富士・八島など)が整備され、翌1894年に勃発する日清戦争での黄海海戦における勝利(制海権の獲得)をもたらす直接的な要因となった。
第二に、藩閥政府が掲げていた「議会の意向を無視して政治を行う」という超然主義の限界が露呈した点である。天皇の権威という「伝家の宝刀」を抜くことでしか予算を成立させられなかった事実は、政党の協力なしには円滑な国政運営が不可能であることを政府に自覚させた。これを契機として、伊藤内閣は板垣退助率いる自由党などへの接近(連立・連携)を図るようになり、のちの本格的な「政党内閣」の成立へと向かう政治史の大きな転換点となったのである。