甲午農民戦争(東学の乱) (こうごのうみんせんそう(とうがくのらん)
【概説】
1894(明治27)年、朝鮮半島南部で東学の信者と農民が中心となって起こした大規模な反乱。重税や外国勢力の進出に対する不満から蜂起し、全州を占領するなど朝鮮政府を脅かす規模に発展した。この反乱の鎮圧を名目として日本と清国の両軍が朝鮮に出兵し、日清戦争勃発の直接的な契機となった。
背景にある「東学」と当時の朝鮮社会
19世紀後半の朝鮮(李氏朝鮮)は、欧米列強や日本の進出に直面し、国内では両班(ヤンバン)と呼ばれる支配層の腐敗や重税により、農民の生活は極度な困窮状態にあった。こうした状況下で、1860年に崔済愚(チェ・ジェウ)が創始した新宗教が東学である。西洋の思想や宗教であるキリスト教(西学)に対抗し、儒教・仏教・道教や朝鮮の民間信仰を融合させたものであった。
東学は「人乃天(人間すなわち天である)」という万民平等の思想を掲げたため、不平等な身分制や過酷な搾取に苦しむ農民層に急速に浸透していった。また、排外主義的な側面も持ち合わせており、日本や欧米の経済的進出によって没落しつつあった民衆の不満の受け皿となっていった。
第一次蜂起の勃発と勢力拡大
1894年の干支である甲午の春、全羅道古阜(コブ)の郡守による不法な搾取と暴政に耐えかねた農民たちが、東学の指導者の一人である全琫準(チョン・ボンジュン)に率いられて蜂起した。彼らは「斥倭洋倡義(日本や西洋を排斥し、大義を唱える)」「輔国安民(国を助け、民を安んずる)」をスローガンに掲げて立ち上がった。
不満を鬱積させていた民衆が次々と合流したことで、反乱軍は瞬く間に数万人の規模へと膨れ上がった。彼らは地方官衙(役所)や政府軍の部隊を次々と打ち破りながら北上し、同年5月には全羅道の首府である全州を占領するに至った。これにより、朝鮮の体制そのものを揺るがす深刻な事態となった。
日清両軍の出兵と日清戦争への発展
事態の収拾が不可能と判断した朝鮮政府は、自力での鎮圧を諦め、宗主国として頼りにしていた清国に援軍を要請した。これに応じた清国が朝鮮への出兵を決定すると、日本も即座に反応した。日本は、1885年に結ばれた天津条約(日清両国が朝鮮に出兵する際の事前通知を取り決めた条約)を根拠に、公使館と居留民の保護を名目として大規模な軍隊を派遣した。
外国軍の介入という事態を危惧した農民軍は、外国軍の撤退と内政改革を条件に朝鮮政府側と和議を結び(全州和約)、一旦は軍を解散した。本来であれば、反乱が収束したため日清両軍も撤退するはずであった。しかし、朝鮮半島での影響力拡大を狙う日本は撤退を拒否し、逆に朝鮮政府に対して強硬な内政改革を要求した。清国にも共同改革を提案したが拒絶され、これを口実として日本は軍事的緊張を意図的に高めていった。その結果、同年7月に日清戦争が勃発することとなる。
第二次蜂起と反乱の終焉
日清戦争開戦直前の1894年7月、日本軍が漢城(現在のソウル)の景福宮(王宮)を武力占領し、親日的な政権を樹立させた。これを見た全琫準ら農民軍は、日本の露骨な内政干渉と主権侵害に激しく反発し、同年秋に再び大規模な蜂起を起こした(第二次蜂起)。この時の目的は、明確な「抗日」であった。
数十万ともいわれる農民軍が日本軍の撃退を目指して北上を試みたが、近代的な兵器と訓練を備えた日本軍および日本軍の指揮下に入った朝鮮政府軍の前に、牛禁雉(ウグムチ)の戦いなどで凄惨な大敗を喫した。指導者の全琫準は翌年に捕縛・処刑され、甲午農民戦争は完全に鎮圧された。しかし、この反乱は単なる農民一揆にとどまらず、朝鮮民衆による反封建・反帝国主義の民族運動の原点として、近代朝鮮半島史において極めて重要な歴史的意義を持っている。