三国干渉
【概説】
日清戦争後の1895年、ロシア・フランス・ドイツの三国が日本に対し、下関条約で清国から割譲された遼東半島の返還を要求した事件。極東への南下政策を進めるロシアが主導し、列強の武力的圧力に屈した日本はやむなく返還に同意した。この屈辱が国内に「臥薪嘗胆」の気運を生み、後の日露戦争へと繋がる重要な歴史的契機となった。
下関条約による遼東半島割譲
日清戦争に勝利した日本は、1895年(明治28年)4月に清国と下関条約(日清講和条約)を締結した。この条約において、日本は清国から台湾、澎湖諸島とともに、南満州に位置する遼東半島の割譲を受けた。遼東半島は黄海や渤海に突き出た戦略的要衝であり、ここを領有することは、日本にとって大陸への確固たる足場を築くことを意味していた。しかし、この日本の急速な大陸進出は、東アジアに権益拡大を図っていた欧州列強、とりわけ極東での不凍港獲得を目指していたロシア帝国にとって到底看過できるものではなかった。
ロシア主導による列強の結託
ロシアはシベリア鉄道の建設を進めており、満州への勢力拡大と太平洋に通じる不凍港の確保を国家の至上命題としていた。日本の遼東半島領有はロシアの南下政策を真っ向から阻むものであったため、ロシアは直ちに列強に働きかけ、日本への干渉を企てた。
これに同調したのがフランスとドイツである。フランスは1892年に成立した露仏同盟によりロシアと密接な関係にあり、同盟関係の強化を優先してこれに加わった。一方ドイツは、ロシアの関心をヨーロッパから極東へ向けさせることで自国の安全保障上の負担を軽減する狙いがあり、さらには清国における自国の権益拡大も視野に入れて干渉に参加した。なお、イギリスとアメリカは中立を保ち、日本の要請にもかかわらず事態への介入を避けた。
勧告の受諾と「臥薪嘗胆」
下関条約調印からわずか6日後の1895年4月23日、駐日ロシア・フランス・ドイツの三国公使は、外務省において陸奥宗光外相に覚書を手渡し、「日本の遼東半島領有は清国の首都(北京)を常に脅かし、極東の平和の妨げになる」として、同半島を清国へ返還するよう勧告した。これは実質的に、三国が極東における圧倒的な海軍力を背景にして行った武力恫喝であった。
当時の日本には列強三国の軍事力に同時に対抗する国力はなく、第2次伊藤博文内閣は御前会議を経て、5月4日に勧告の受諾を決定した。最終的に日本は代償として3000万両(約4500万円)の追加賠償金を得ることで遼東半島を清国に返還した。戦勝の歓喜に沸いていた日本国民にとって、この後退は大きな衝撃を与え、世論は激昂した。これを機に、ロシアに対する敵愾心が急速に高まり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん:目的を果たすためにあらゆる苦難を耐え忍ぶこと)」を合言葉とする富国強兵・軍備拡張の動きが国民的合意となっていった。
帝国主義の激化と日露戦争への道程
三国干渉は、東アジアにおける帝国主義的分割を一層加速させる結果を招いた。清国の弱体化が露呈すると、列強は次々と「租借地」という形で清国領土を分割し始めた。皮肉なことに、干渉を主導したロシアは1898年に清国から旅順・大連(かつて日本が返還させられた遼東半島南部)を租借して太平洋艦隊の基地を築き、ドイツは膠州湾を、フランスは広州湾をそれぞれ租借して軍事的拠点を確保した。
こうした露骨な侵略行為は清国民の強い反発を呼び、1900年の義和団の乱(北清事変)を引き起こすことになる。ロシアは乱の鎮圧を口実に満州を軍事占領し、終結後も撤兵を拒んだため、日本との対立は決定的なものとなった。三国干渉によって生じたロシアの極東進出の脅威は、日本に日英同盟(1902年)の結成を決断させ、最終的に1904年の日露戦争へと直接結びついていくのである。三国干渉は、日清戦争後の東アジア情勢を劇的に転換させ、近代日本が列強のパワーポリティクスへと本格的に呑み込まれていく最大の歴史的転換点であったといえる。