新政府軍(官軍・東征軍)
【概説】
幕末から明治維新期にかけて、薩摩・長州・土佐・肥前(薩長土肥)などの有力雄藩の藩兵を中心に組織された朝廷側の軍隊。王政復古の大号令を経て樹立された明治新政府の軍事力であり、戊辰戦争において「錦の御旗」を掲げて旧幕府軍を討伐し、近代国家建設の軍事的礎となった。
薩長土肥の結集と「官軍」への転化
1867(慶応3)年の大政奉還および王政復古の大号令により、徳川幕府の支配体制は形骸化した。しかし、依然として強大な領地と旧幕府勢力を保持する徳川家に対抗するため、新政府は実質的な軍事力を必要とした。その中核となったのが、倒幕運動を牽引した薩摩藩・長州藩、そして土佐藩や肥前藩といった雄藩の藩兵である。これらが結集して組織されたのが新政府軍(初期の東征軍)であった。
1868(明治元)年1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて、新政府側は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に仰ぎ、朝廷の軍隊であることを示す「錦の御旗」を掲げた。これにより、新政府軍は正当な天皇の軍隊である「官軍」となり、対する旧幕府軍は「賊軍(朝敵)」と規定され、政治的・精神的に圧倒的な優位に立つこととなった。この「官」と「賊」の図式の構築こそが、初期新政府軍の最大の武器であったと言える。
近代兵器の導入と軍制改革
新政府軍が戊辰戦争において勝利を収めた背景には、西洋式の軍事技術と組織編成の積極的な導入がある。特に薩摩・長州両藩は、幕末期からイギリスなどの外国から最新の銃器(ミニエー銃やスナイドル銃、アームストロング砲など)を組織的に導入しており、旧幕府軍に対して圧倒的な火力差を示した。
また、従来の身分制にとらわれない軍制への移行も進んだ。長州藩の奇兵隊に代表される、庶民を組み込んだ諸隊の経験は、旧来の武士階級による戦闘から、近代的な組織戦への脱皮を促した。戊辰戦争の最中には、大村益次郎らの主導のもとで近代的な軍事官庁(軍防事務局や軍務官)が設置され、各藩の連合軍から中央集権的な国軍へと脱皮するための組織改革が並行して進められた。
戊辰戦争の終結と近代陸海軍への展望
東海道・東山道・北陸道の各ルートを進撃した新政府軍は、江戸無血開城を経て東北地方へ進出、奥羽越列藩同盟との激戦(会津戦争など)を制した。最終的に1869(明治2)年、箱館五稜郭の戦いにおいて旧幕府脱走軍を降伏させたことで、戊辰戦争は終結し、新政府による国内統一が完成した。
戦争終結後、各藩の独立した軍隊を解体し、強力な国家軍隊を創設することが新政府の急務となった。1871(明治4)年の廃藩置県の断行にあたっては、薩長土3藩から集められた御親兵がその武力背景となり、これが後の徴兵令(1873年)および近代的「日本軍」の創設へとつながっていく。新政府軍は、単なる内戦の勝者にとどまらず、日本における近代軍隊の直接的な母体としての歴史的意義を有している。