江戸無血開城(江戸開城)
【概説】
1868年(慶応4年)4月、新政府軍の参謀である西郷隆盛と旧幕府軍の陸軍総裁である勝海舟の会談により、新政府軍による江戸城総攻撃が回避され、平和裏に城が明け渡された事件。100万都市であった江戸を戦火から救っただけでなく、列強の介入を防ぎ、日本の近代化への道筋を決定づけた歴史的転換点である。
鳥羽・伏見の戦いから迫る江戸総攻撃
1867年末の大政奉還および王政復古の大号令を経て、1868年1月に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争の幕が切って落とされた。この戦いに敗れた前将軍・徳川慶喜は、軍勢を置き去りにして大坂城から江戸へ逃亡し、上野の寛永寺に蟄居して新政府に対する絶対恭順の姿勢を示した。しかし新政府側は、有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍を組織して江戸へ進軍させた。
東征軍は慶喜の追討と旧幕府勢力の完全な武力弾圧を主張し、慶応4年(1868年)3月15日を江戸城総攻撃の期日と定めた。当時の江戸は人口100万人を抱える世界有数の大都市であり、総攻撃が決行されれば市街地が火の海と化し、無数の民衆が犠牲になることは避けられない状況であった。
西郷隆盛と勝海舟の歴史的会談
江戸の壊滅を回避するため、旧幕府側の陸軍総裁に任命された勝海舟は、強硬に主戦論を唱える幕臣たちを抑えつつ、新政府軍との和平交渉を模索した。勝の意を受けた山岡鉄舟が駿府に進駐していた東征軍参謀・西郷隆盛のもとへ赴き、命懸けの事前交渉を行った。この下地の上で、総攻撃予定日の直前である3月13日と14日、江戸の薩摩藩邸において西郷と勝のトップ会談が実現した。
勝は慶喜の恭順の意を説き、江戸市民を戦火に巻き込むことの不条理を訴え、無血での開城を提案した。一方の西郷も、内戦が泥沼化すればイギリスなどの列強諸国が介入し、日本が植民地化される危機感を抱いていた。特にイギリス公使ハリー・パークスから内戦の拡大を強く非難されていた背景もあり、西郷は勝の提案を受け入れ、自身の責任において江戸城総攻撃の中止を決断した。
江戸城明け渡しと旧幕府軍の動向
西郷と勝の会談での合意に基づき、同年4月11日(新暦5月3日)、江戸城は新政府軍に平和裏に明け渡された。徳川慶喜の死一等は減じられ、水戸での謹慎を経て、のちに駿府(静岡)に70万石で移封されることとなった。また、幕府の武器や軍艦の多くも新政府軍に引き渡されることが決定した。
しかし、この寛大な処置や降伏に納得しない旧幕臣たちも少なからず存在した。彼らの一部は彰義隊を結成して上野に立てこもり(上野戦争)、また榎本武揚らは旧幕府艦隊を率いて箱館(函館)へ脱走するなど、局地的な抗戦は翌年の箱館戦争まで続くこととなる。
日本近代史における無血開城の意義
江戸無血開城は、単なる一都市の戦火回避にとどまらず、日本近代史において極めて重大な意義を持っている。最大の成果は、江戸という政治・経済の中心地が破壊を免れたことにより、新政府がその都市インフラや機能をそのまま引き継ぎ、のちの「東京」として近代国家の首都をスムーズに構築できた点にある。
さらに、大規模な内戦を未然に防いだことで、フランスやイギリスなど外国勢力の軍事介入の口実を与えず、日本の独立を維持できたことも重要である。対立する両陣営の責任者であった西郷と勝が、大局的な見地から国家の危機を救ったこの出来事は、明治維新を成功に導いた最大のハイライトとして今日でも高く評価されている。