公議政体 (幕末〜明治初期)
【概説】
幕末から維新期にかけて提唱された、有力大名(諸侯)や藩士などの合議による議会政治によって国家の意思決定を行う政治体制構想。徳川幕府による専制政治への批判から生まれ、朝廷・幕府・雄藩の連合政権を目指した。近代的な議会制度の先駆をなすとともに、明治初期の国家構想にも大きな影響を与えた。
幕末における公議政体論の台頭と展開
1853年のペリー来航以降、従来の徳川幕府単独による意思決定(幕府専制)では国難を乗り切ることが困難となった。時の老中阿部正弘が諸大名や朝廷、さらには市井にまで広く意見を求めたことで、「広く世論(公議)を反映させて政治を行うべきである」という「公議世論」の意識が台頭した。これが公議政体論の出発点である。
文久年間に入ると、島津久光(薩摩藩)や松平慶永(越前藩)、山内容堂(土佐藩)らをはじめとする雄藩大名(諸侯)が主導し、朝廷と幕府の協調のもとで有力大名による合議政治を実現させようとする公武合体論と結びついた。彼らは参預会議や四侯会議を設置し、合議制による政治改革を試みたが、主導権を握ろうとする幕府や薩摩藩の思惑の違い、さらに一橋慶喜の政治力によっていずれも瓦解した。
その後、欧米の議会制度が紹介されると、単なる大名会同の枠を超えた近代的議会構想へと洗練されていった。坂本龍馬が示したとされる「船中八策」や、それを土佐藩の後藤象二郎が徳川慶喜に建白した大政奉還論は、この公議政体論を具体化したものである。慶喜による大政奉還の背景には、一度政権を朝廷に返上した上で、自らが諸侯会議の議長として実質的な最高権力を握り続けるという公議政体への思惑があった。
明治政府への継承と自由民権運動への展開
1867年末の王政復古の大号令とそれに続く戊辰戦争により、旧幕府を排除した形での薩長中心の明治新政府が樹立されたため、慶喜が企図した徳川主導の公議政体は阻止された。しかし、新政府が掲げた基本方針である「五箇条の御誓文」(1868年)の第1条「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」には、公議政体の精神が明確に継承されていた。
これに基づき、新政府は政体書において三権分立を定め、公募された藩士たちによる合議機関である公議所(のちの集議院)を設置するなど、一時的に議会政治の試みを行った。しかし、藩閥政府による中央集権化(廃藩置県)が急速に進む中で、実権は少数の有司(官僚)に握られ、公議政体的な機関は形骸化していった。この「有司専制」への批判が、1870年代以降の国会開設を求める自由民権運動へとつながり、日本における本格的な立憲制・帝国議会の創設を促すこととなった。