府知事
【概説】
明治時代以降、東京・大阪・京都などの重要都市(府)に中央政府から派遣された地方行政長官。1868年の府藩県三治制によって創設され、廃藩置県によって全国的な中央集権体制が確立される中で、政府の政策を地方に浸透させる強力な権限を有した。戦後に地方自治法が施行されるまでは内務省からの官選であり、国家の出先機関の長としての性格が極めて強かった。
府藩県三治制の導入と「府」の創設
1868年(慶応4年)、明治新政府は旧幕府から接収した直轄地(天領)のうち、京都・大坂(大阪)・江戸(東京)などの政治的・経済的に重要な都市を「府」とし、それ以外の直轄地を「県」、旧来の大名領を「藩」とする府藩県三治制を敷いた。このとき制定された政体書に基づき、府の長官として任命されたのが府知事である。当初の府知事には、新政府内で力を持っていた公家や薩長土肥出身の有力者が任命され、旧幕府勢力の残党警戒や、混乱する都市の治安維持、さらには近代化に向けた都市改造など、新体制への移行期において極めて重要な役割を担った。
廃藩置県と官選知事による中央集権の確立
1871年(明治4年)に廃藩置県が断行されると、全国の「藩」は消滅し、地方行政区画は「府」と「県」に統一された。この際、県の長官は「県令」と改称されたが(1886年に再び県知事に改称)、東京・大阪・京都の三府(時期によっては神奈川や長崎なども府とされた)の長官は引き続き「府知事」と呼ばれた。
明治時代の府知事および県令は、現代のような住民の選挙で選ばれる公選制ではなく、中央政府から派遣される官選であった。彼らは内務省の指揮監督下に置かれ、地方における徴税権、警察権、教育行政などの強力な権限を掌握していた。新政府が推進した地租改正や学制、徴兵令といった富国強兵・殖産興業政策を、国家の枢要である重要都市において強力に推行し、中央集権体制を地方の末端まで浸透させるための手足として機能したのである。
地方自治制度の整備と「市制特例」
1880年代後半から1890年代にかけて、大日本帝国憲法の制定と並行して、プロイセンの制度をモデルとした近代的な地方自治制度(市制・町村制、府県制・郡制)が山縣有朋らによって整備された。しかし、首都である東京をはじめ、大阪、京都という重要三府については、政府の強力な統制下に置き続ける必要があると判断された。
その結果、1889年(明治22年)の市制施行に伴い「市制特例」が設けられ、東京市・大阪市・京都市の三市には独立した市長を置かず、それぞれ府知事が市長の職務を兼任することとされた。これは大都市の自治権を著しく制限するものであり、自由民権運動家や市民からの猛烈な反対運動(市制特例撤廃運動)を引き起こした。最終的にこの特例は1898年(明治31年)に廃止されたが、この事実は、明治政府がいかに重要都市における府知事の権力と国家統制を重視していたかを物語っている。
国家の地方長官から住民の代表へ
大正時代の「大正デモクラシー」期を経て、地方自治の拡充を求める声は高まり続けたが、第二次世界大戦終結まで、府知事が中央政府(内務省)からの官選であるという原則は崩れなかった。戦時体制下においては、国家総動員体制を支えるための地方統制の要として機能し続けた。
しかし、戦後の1947年(昭和22年)、日本国憲法および地方自治法が施行されたことにより、地方行政制度は根本的な転換を迎える。強力な中央集権の象徴であった内務省は解体され、府知事は中央政府の官僚から、住民の直接選挙によって選ばれる「地方公共団体の長」(公選制)へと生まれ変わったのである。名称としての「府知事」は今日(大阪府・京都府)にも受け継がれているが、その歴史的性格は明治から昭和戦前期にかけての時代と戦後とで大きく異なっている。