文部省
【概説】
1871年(明治4年)、近代的な学校制度の導入や教育・学術行政を統括するために新設された中央官庁。富国強兵を担う人材育成を目的に「学制」を頒布し、戦前は「教育勅語」に基づく国家主義的教育や思想統制の主柱として機能した。戦後は民主的教育の推進機関として再編され、2001年に科学技術庁と統合して文部科学省となった。
文部省の創設と「学制」の頒布
明治維新直後、新政府は欧米列強に対抗しうる近代国家の建設において、教育の普及が不可欠であると痛感していた。1871年(明治4年)、従来の最高学府であった大学(旧昌平坂学問所など)を廃止し、全国の教育行政を一元的に統括する機関として文部省が新設された。初代文部卿(のちの文部大臣)には大木喬任が就任した。
翌1872年(明治5年)、文部省はフランスの学区制を模倣した強力な中央集権的教育法令である「学制」を頒布した。これは「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という理念のもと、四民平等の国民皆学を目指す画期的なものであった。しかし、学校の設立費用や授業料の多くが民衆の自己負担とされたため、各地で学制反対一揆が起こるなどの激しい反発も招いた。
教育方針の転換と国家主義教育の確立
学制の不評を受け、文部省は1879年(明治12年)に学制を廃止し、アメリカの地方分権的な制度を参考にした自由主義的な「教育令」を公布した。しかし、就学率の低下や自由民権運動の激化に直面すると、政府内で「教育を通じた国家統制が必要である」との声が強まった。翌1880年の「改正教育令」により再び国による統制が強化され、儒教的道徳を教える「修身」が筆頭教科とされた。
1885年(明治18年)に内閣制度が発足すると、初代文部大臣に森有礼が就任した。森は翌1886年に学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令)を公布し、国家の要請に応える人材(天皇の忠良なる臣民)を育成するための体系的な教育制度を確立した。さらに1890年(明治23年)には教育勅語が発布され、天皇に対する忠君愛国を核とする道徳教育の基本方針が定まり、文部省はこれを全国の学校に浸透させる最大の推進主体となった。
教科書の国定化と戦時下の思想統制
明治後期以降、文部省は教育内容への介入をさらに深めていった。1903年(明治36年)、教科書会社と教育関係者との間での大規模な贈収賄事件(教科書疑獄事件)を契機として、小学校教科書の国定化(国定教科書制度)が導入された。これにより、文部省が直接教科書を編纂する体制となり、全国一律に国家主義的価値観を注入することが可能となった。
昭和期に入り日本が十五年戦争への道を歩み始めると、文部省の「思想統制機関」としての性格は決定的なものとなった。1935年の天皇機関説事件を経て「国体明徴」運動が推進されると、文部省内に教学局が設置され、『国体の本義』や『臣民の道』を刊行して国民の思想教化を図った。1941年(昭和16年)には小学校を国民学校に改組し、皇国史観に基づく徹底した軍国主義教育を推し進めた。
戦後の教育民主化と文部科学省への再編
第二次世界大戦での敗戦後、文部省の役割は劇的に転換した。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、軍国主義的・超国家主義的な教育は厳格に排除された。1947年(昭和22年)には教育基本法および学校教育法が制定され、戦前の国家統制型から、個人の尊厳と民主主義を重んじる教育体系(6・3・3・4制)へと生まれ変わった。
教科書制度も国定から検定制度へと移行し、文部省の権限も教育委員会に対する「指導や助言」を中心とするものへと縮小された。ただし、1950年代のいわゆる「逆コース」の時代には、教育委員会の任命制への変更や道徳教育の特設など、再び文部省による一定の統制強化が図られ、教職員組合(日教組)との激しい対立も生じた。
日本の教育・学術・文化・スポーツ行政を半世紀以上にわたり担い続けた文部省は、2001年(平成13年)の中央省庁再編に伴い科学技術庁と統合され、新たに文部科学省として再編され、130年に及ぶその歴史に幕を閉じた。