札幌農学校 (さっぽろのうがっこう)
【概説】
明治初期に北海道の開拓を担う近代的な農業指導者を育成するため、開拓使によって設立された官立の高等教育機関。初代教頭のクラークらが導入したキリスト教精神に基づく自由な学風により、近代日本の学術や思想界をリードする多くの有能な人材を輩出した。
設立の背景と開拓使の近代化政策
明治政府は、ロシアに対する北方の防備と広大な未開地の開発を目的に、1869(明治2)年に開拓使を設置した。開拓使次官(のちに長官)となった黒田清隆は、アメリカの農務長官ケプロンをお雇い外国人として招き、その提言をもとに近代的な農業技術の導入と、それを現地で実践・指導できる人材の育成を急いだ。
こうした方針のもと、1872(明治5)年に東京・芝に「開拓使仮学校」が設立され、これが1875年に札幌へ移転。翌1876(明治9)年、日本初の学士授与機関である官立の「札幌農学校」として正式に開校した。これは、近代技術の導入が中央だけでなく、地方のフロンティア開拓と直結して推進された象徴的な事例であった。
クラークの教育方針とキリスト教精神の受容
札幌農学校の初代教頭(実質的な学長)として招かれたのが、アメリカのマサチューセッツ農科大学長であったウィリアム・S・クラークである。クラークはわずか8ヶ月ほどの滞在であったが、「紳士たれ(Be gentleman)」という有名な訓化のもと、細かい規則を廃した自主自律の全人教育を施した。
さらに、クラークは道徳教育の基礎としてキリスト教精神を重視し、学生たちに「聖書信徒の盟約」への署名を促した。この精神はクラークの帰国後も学生たちに受け継がれ、厳しい自然環境と開拓の困難に立ち向かう精神的支柱となった。札幌農学校におけるキリスト教の受容は、当時の明治政府による「和魂洋才」的な技術導入の枠を超え、精神の近代化をもたらす画期的な動きとなった。
輩出された人材と日本の近代化への影響
札幌農学校からは、近代日本の形成に決定的な影響を与えた指導者たちが輩出された。一期生からはのちに札幌農学校初代日本人校長となる佐藤昌介らが、そしてクラークの去った直後に入学した二期生からは、キリスト教思想家の内村鑑三、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾らが現れた。
彼らは、科学技術の修得にとどまらず、国際的な視野と高い倫理観を備えた知識人として、言論・思想・教育の分野で多大な貢献を果たすことになる。札幌農学校は、その後1882年の開拓使廃止にともない農商務省や文部省の管轄へと移り、1907年には東北帝国大学農科大学となり、1918(大正7)年には北海道帝国大学(現在の北海道大学)へと発展していった。