師範学校

近代的な教育システムを動かすため、教員(先生)を養成する目的で国が設立した学校は何か?
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重要度
★★

師範学校

1872〜1949年

【概説】
明治政府が学制の公布に伴い、近代的な学校教育を担う教員を養成するために設立した官立・公立の教育機関。1872年の東京師範学校設立に始まり、のちの師範学校令により国家主義的教育の担い手を育てる全寮制の学校へと再編された。戦後の教育改革にともない、新制大学の教育学部等に統合されるまで日本の義務教育を支え続けた。

学制の公布と教員養成の始まり

1872(明治5)年、明治政府は「国民皆学」を目指して学制を公布し、全国に小学校を建設する近代教育制度をスタートさせた。しかし、それまでの寺子屋教育とは異なる、欧米式の新しいカリキュラムや「一斉教授(クラス授業)」を指導できる教員が圧倒的に不足していた。そこで、教育制度のインフラとして急務となったのが教員養成機関の設立であった。

政府は学制公布と同年の1872年、官立(国立)の東京師範学校(のちの東京教育大学、現・筑波大学)を設立した。ここにお雇い外国人のアメリカ人マリオン(Scott Marion)を招聘し、アメリカの最新の教育理論に基づく授業法を指導させた。この東京師範学校をモデルとして、各府県にも公立の師範学校が次々と設置され、近代的な教員の養成が本格化した。

森有礼の改革と「師範学校令」による国家主義化

1886(明治19)年、初代文部大臣に就任した森有礼は、一連の「学校令」を制定して教育制度の大規模な再編を行った。このとき制定された師範学校令により、師範学校は尋常師範学校(各府県に1校設置、義務教育の教員を養成)と、高等師範学校(東京に設置、尋常師範学校や中学校の教員を養成)の二本立てに整理された。

森有礼は、国家の発展には「良き従順な国民」を育成することが不可欠であり、そのためには教員自身が国家に忠誠を尽くす強靭な人材でなければならないと考えた。この方針のもと、師範学校には兵式体操(軍事訓練)が導入され、生徒は全員が寄宿舎生活(全寮制)を義務付けられた。学費や生活費は国費で賄われたが、卒業後は一定期間、教職に就く義務が課された。このようにして師範学校は、軍隊的な規律と国体(天皇制国家体制)への絶対服従を叩き込む、国家主義的なエリート教員養成装置へと変貌を遂げた。

地域社会における意義と戦後の改組

師範学校は、学費が免除され生活費も支給されたことから、経済的に高等教育への進学が困難だった地方の農家や庶民の優秀な子女にとって、格好の進学ルートとなった。そのため、地方の師範学校にはきわめて優秀な人材が集まり、卒業後は各地の小学校教師として、地域社会の知識人・文化指導者(いわゆる「訓導」)として大きな影響力を持った。

大正デモクラシー期には自由主義的な教育運動(大正新教育運動)の拠点となる局面もあったが、昭和の超国家主義・軍国主義の時代には、再び国家の教育政策を忠実に遂行する最前線となった。敗戦後の1949(昭和24)年、GHQの指導による学制改革(教育基本法・学校教育法の制定)が行われると、戦前の国家主義的教育への反省から師範学校は廃止され、各都道府県の新制国立大学(教育学部・学芸学部など)へと吸収・統合され、その歴史を閉じた。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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