学制反対一揆 (がくせいはんたいいっき)
【概説】
明治政府が1872年に発布した「学制」に対し、重い費用負担や労働力の喪失に反発した農民らが起こした暴動。新設された小学校の焼き討ちや破壊などが全国規模で頻発した、明治初期を代表する新政反対一揆の一つ。
学制の理念と農民にのしかかる過酷な現実
明治政府は1872(明治5)年、フランスの学区制を模範とした近代的な学校制度である学制を発布した。「必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」という理念を掲げ、身分や性別に関わらず国民皆学を目指した画期的な制度であった。しかし、その華々しい理念の裏で、運営の実態は民衆にとって極めて過酷なものであった。
近代国家としてのインフラを急速に整えようとした政府には十分な財政的余裕がなく、小学校の建築費や維持費、さらには教員の給与や子どもの授業料(月謝)の大部分が、地方の受益者負担(農民の直接負担)とされた。当時の基幹産業であった農業を営む民衆にとって、日々の生活を圧迫する教育費の捻出は耐え難い重荷であった。さらに、家事や農作業の貴重な労働力である子どもを学校に囲い込まれることは、実質的な減収を意味していた。このように、理念先行の教育政策は、農民の生活実態を全く無視したものであった。
徴兵制・地租改正との連動と「小学校焼き討ち」
学制に対する不満は、同時期に断行された徴兵令や地租改正への不満と容易に結びついた。当時の農民の間では、徴兵令の「血税」という言葉を誤解した「学校は子どもを集めて生血を抜き取り、西洋人に売るための場所だ」といった、近代化に対する恐怖から生じた迷信やデマが広く流布した。
この結果、近代化政策の目に見える象徴であった小学校が民衆の怒りの矛先となり、全国で焼き討ちや窓ガラスの破壊といった暴動が相次いだ。特に1873(明治6)年から1874(明治7)年にかけて激化し、筑前竹槍一揆や美作(みまさか)一揆などの大規模な新政反対一揆においては、多くの学校校舎(寺院を借用した簡易的なものを含む)が損壊・焼失する事態となった。これらの暴動は、単なる教育への反発にとどまらず、急進的な近代化への拒絶反応であったといえる。
一揆の歴史的影響と教育政策の転換
政府はこれらの反対一揆を軍隊や警察の力で厳しく鎮圧したが、民衆の激しい抵抗を無視し続けることはできなかった。就学率は政府の期待通りには伸び悩み、特に女子や貧困層の就学率は極めて低い状態が続いた。
民衆の不満を和らげ、実情に即した近代教育を定着させるため、政府は1879(明治12)年に一律的な学制を廃止した。これに代わり、アメリカの教育制度を参考に、地方の自主性を重んじて就学義務を大幅に緩和した教育令を制定することとなる。学制反対一揆は、明治政府に対して急進的なトップダウン方式の近代化政策の修正を余儀なくさせた、重要な民衆運動であった。