岩倉(遣外)使節団

1871年、不平等条約の改正に向けた交渉と、欧米の近代的な制度・文化の視察を目的として派遣された使節団は何か?
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重要度
★★★★

岩倉(遣外)使節団

1871年〜1873年

【概説】
1871(明治4)年、不平等条約の改正予備交渉および欧米の先進的な制度・文物の視察を目的として、明治政府が派遣した大規模な使節団。右大臣の岩倉具視を特命全権大使とし、政府の最高首脳陣が多数参加して約1年9ヶ月にわたり欧米を巡歴し、帰国後の日本の近代化政策に決定的な影響を与えた。

使節団派遣の背景と目的

明治維新直後の日本が抱えていた最大の外交課題は、幕末に江戸幕府が欧米列強と締結した安政の五カ国条約などの不平等条約の改正であった。これらの条約には領事裁判権(治外法権)の承認や関税自主権の欠如といった、国家の主権を著しく制限する内容が含まれていた。1872(明治5)年がこの条約の改定期限にあたっていたため、政府は列強との間で予備交渉を行う必要に迫られていた。

また同時に、西洋の進んだ近代国家の制度や技術、文化を直接視察し、新たな国づくりのモデルを探求することも重大な目的であった。廃藩置県を断行し、中央集権体制の基礎を固めたばかりの明治政府にとって、西洋文明の実態を把握することは急務であったのである。

政府首脳が参加した異例の陣容

使節団の最大の特徴は、その規模の大きさと、参加者の顔ぶれにある。特命全権大使には右大臣の岩倉具視が就任し、副使として木戸孝允大久保利通伊藤博文、山口尚芳という、維新の元勲や新進気鋭の実力者が名を連ねた。さらに各省の優秀な官僚や随行員が加わり、総勢は100名を超える規模となった。国家の最高首脳陣が揃って長期間国を空けるという、世界史的にも極めて異例の体制であった。

また、使節団には中江兆民や、当時わずか7歳であった津田梅子ら約50名の留学生も同行した。彼らは欧米各地に残って学問や技術を修め、後に近代日本の教育や思想、科学など様々な分野で活躍する人材へと成長していった。

条約改正交渉の挫折と欧米視察への転換

1871(明治4)年11月に横浜港を出発した使節団は、太平洋を渡りまずアメリカに到着した。しかし、アメリカ政府との間で試みた条約改正交渉は、日本の法典や近代的な国家制度が未整備であることを理由に相手にされず、早々に頓挫することとなった。この出来事により、使節団の主眼は「条約改正」から「欧米諸国の視察」へと大きくシフトしていく。

使節団はその後、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアなどヨーロッパ各国を歴訪した。イギリスでは産業革命の成果である圧倒的な工業力や鉄道網に衝撃を受け、新興国ドイツ(プロイセン)では宰相ビスマルクと会見した。ビスマルクから「万国公法(国際法)は名目に過ぎず、大国は自国の利益のために力を行使する。小国が独立を保つには富国強兵こそが急務である」という現実政治(リアルポリティクス)の教えを受けたことは、大久保利通らに深い感銘と強い危機感を与えた。

帰国後の影響と「内治優先」への転換

1873(明治6)年、約1年9ヶ月に及ぶ長期の視察を経て使節団は帰国した。彼らが痛感したのは、西洋列強と日本の圧倒的な国力の差と、独立を維持するための内政充実(富国強兵・殖産興業)の必要性であった。

しかし、留守を預かっていた西郷隆盛や板垣退助らの「留守政府」では、武力を用いてでも朝鮮を開国させようとする征韓論が高まっていた。岩倉や大久保ら帰国組は、「今は外征よりも国内の近代化を優先すべきである」としてこれに強く反対し、激しい権力闘争の末に西郷らを政府から下野させた(明治六年政変)。

以後、大久保利通を中心とする政府は、使節団が持ち帰った知見をもとに内務省を設立し、地租改正の推進、殖産興業政策の展開、近代的な法典や警察制度の整備など、上からの急速な近代化政策を強力に推し進めていくこととなる。岩倉使節団の経験は、単なる視察旅行にとどまらず、その後の日本が歩むべき国家構想の原点となった極めて重要な歴史的転換点であった。

岩倉使節団『米欧回覧実記』 (岩波現代文庫 学術 92)

明治初期の日本人が異国の文明を驚異の眼差しで記録した、知の巨塔とも言うべき歴史的資料の決定版。

岩倉使節団の再発見

当時の外交戦略と舞台裏を現代的視点で読み解き、使節団の真の目的と挫折を鮮やかに照射する再評価の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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