琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん)
【概説】
1879年(明治12年)、明治政府が軍隊や警察を背景に琉球藩を強制的に廃止し、沖縄県を設置して日本国家に完全編入した一連の政策。近代主権国家としての国境画定を目指す政府によって断行され、近世以来の「日清両属」という琉球王国の特殊な国際的地位はこれによって消滅した。
「日清両属」体制の矛盾と国境画定の急務
江戸時代の琉球王国は、1609年の島津氏(薩摩藩)による侵攻以降、幕藩体制の末端に位置づけられながらも、独立した王国としての体裁を保ち、中国の清朝とも冊封(さくほう)関係を結んで朝貢を続けていた。このような「日清両属」と呼ばれる特殊な地位は、東アジアの伝統的な華夷秩序の下では許容されていた。
しかし、明治維新を経て欧米型の近代主権国家の建設を目指す明治政府にとって、領土の境界を明確にし、国家の主権を一元的に及ぼすことは急務であった。とりわけ、南方の防衛線を確立する上で、曖昧な帰属状態にあった琉球を完全な日本の領土として確定させる必要に迫られていたのである。
宮古島島民遭難事件と琉球藩の設置
琉球の帰属問題を動かす直接の契機となったのが、1871年(明治4年)に発生した宮古島島民遭難事件(琉球漂流民殺害事件)である。台湾に漂着した琉球の宮古島島民が、現地の原住民に殺害されたこの事件に対し、日本政府は清国に責任を追及した。しかし、清国が台湾原住民を「化外の民(国家の統治が及ばない民)」として責任を回避したため、日本側はこれを口実に武力行使の準備を進めることになる。
日本政府は、殺害された島民を「日本国民」として扱う前提を作るため、翌1872年(明治5年)に琉球国王の尚泰(しょうたい)を「琉球藩王」に封じて華族の列に加え、琉球王国を琉球藩へと改組した。これを一般に「第一次琉球処分」と呼ぶ。そして1874年(明治7年)、日本は台湾出兵を断行。その後の日清間の交渉で清国に賠償金を支払わせることに成功し、事実上、琉球に対する日本の保護権を国際的に既成事実化した。
沖縄県の設置と琉球王国の滅亡
琉球藩が設置された後も、琉球側は清国への朝貢を続け、日清両属の維持を強く望んだ。これに対し明治政府は1875年(明治8年)、清国への朝貢・冊封の廃止と、明治年号の使用などを琉球藩に命令したが、琉球側はこれに抵抗し、清国に救援を求めるなどの外交工作を行った。
事態の打開を図るべく、明治政府は1879年(明治12年)、処分官の松田道之を派遣した。松田は軍隊(熊本鎮台の分遣隊)と警察官を率いて首里城に入城し、武力を背景に首里城の明け渡しを強行した。ここに琉球藩は廃止されて新たに沖縄県が設置され、尚泰には東京への移住が命じられた。これが「第二次琉球処分」であり、狭義の「琉球処分」はこの1879年の出来事を指す。これにより、約450年続いた琉球王国は名実ともに滅亡した。
清国の反発と領有権問題の帰結
日本の琉球併合に対し、清国は自国の朝貢国を奪われたとして強硬に抗議し、両国関係は一触即発の危機に陥った。アメリカの元大統領グラントの調停により、1880年(明治13年)、日本政府は宮古・八重山諸島を清国に割譲する代わりに、清国が日本に最恵国待遇を与えるという「分島改約案」を提示した。
清国の全権代表は一度はこれに調印に合意したものの、清国内部の強硬派の反対や琉球の旧支配層の嘆願により、最終的に清国政府は批准を拒否した。そのため条約は幻に終わり、琉球の帰属問題は棚上げ状態となった。この問題が最終的な決着を見るのは、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争において日本が勝利し、清国が日本の琉球領有を暗黙に承認せざるを得なくなってからである。
なお、沖縄県設置後の明治政府は、人頭税などの旧来の税制や土地制度を当面の間維持する旧慣温存政策をとった。これは、急激な制度変更による県民の反発や清国の介入を避けるための措置であったが、結果として沖縄の近代化や経済発展を大きく遅らせる要因ともなった。