小笠原諸島 (おがさわらしょとう)
【概説】
1876年に明治政府によって日本領としての所属が国際的に確定した、太平洋上に位置する火山群島。江戸時代の「無人島(ぶにんじま)」の発見に始まり、幕末から明治初期にかけての欧米列強との領有権交渉を経て、近代日本の国境画定を象徴する地域となった。
江戸時代における「無人島」の歴史と欧米人の定住
小笠原諸島は、伝承では1593(文禄2)年に信州の深志城主であった小笠原貞頼によって発見されたとされ、これが現在の名称の由来となっている。江戸幕府は1675(延宝3)年に島谷市左衛門らの調査船を派遣して「無人島(ぶにんじま)」と命名し、日本の主権下にあることを示す石碑を建てたが、遠隔地であるため本格的な開発や定住には至らなかった。この「ブニン」という呼び名が、のちに欧米で「ボニン・アイランズ(Bonin Islands)」と呼ばれる起源となる。
19世紀に入ると、捕鯨船の往来が活発化し、1830年にはアメリカ人のナサニエル・セイヴァリーをはじめとする欧米人やハワイの先住民が父島に入植を開始した。これにより、小笠原諸島は特定の国家に属さないまま、多民族が居住する太平洋の要衝としての性格を強めていくこととなった。
幕末の国境交渉と明治政府による領有宣言
1853年、アメリカのペリー艦隊が日本来航の直前に父島に寄港し、石炭補給所の設置などを目指して土地を購入したことで、江戸幕府は領有権喪失の危機感を強めた。これに対抗するため、幕府は1861(文久元)年に外国奉行の水野忠徳や小笠原開拓御用を命じられた小花作助らを派遣。諸島を「小笠原島」と正式に命名し、八丈島などからの日本人移民を送り込んで開拓を試みたが、幕末の政局の混乱と財政難により、わずか2年ほどで移民を引き揚げさせざるを得なかった。
明治維新後、近代国家としての国境画定を急ぐ明治政府は、1875(明治8)年に調査船「明治丸」を派遣して現地調査を行い、翌1876(明治9)年に内務省の出張所を設置した。政府はイギリスやアメリカなどの関係国に対して日本領有を通告し、諸外国から異議が申し立てられなかったため、同年、小笠原諸島の日本領有が国際的に正式に確定することとなった。
領土確定後の統治と近代化
国際的に領有が承認された小笠原諸島は、当初は内務省の管轄下に置かれ、1880(明治13)年には東京府(現在の東京都)の管轄に編入された。政府は旧来の欧米系先住島民に対して日本国籍を付与(帰化)して保護する一方で、本土からの移民を本格的に進めた。島内では亜熱帯の気候を利用したサトウキビ栽培やウィンター・ココアなどの農業、捕鯨業や漁業が発展し、太平洋における近代日本の重要な前方拠点へと変貌を遂げていくこととなった。