硫黄島 (いおうとう / いおうじま)
【概説】
1891年(明治24年)に日本の領土として編入され、東京府(のちの東京都)の管轄に置かれた小笠原諸島南部の火山島。明治期以降は開拓が進められ硫黄採掘や農業が行われたが、太平洋戦争末期には日米両軍の凄惨な激戦地となった。戦後はアメリカの施政権下に置かれたのち、1968年(昭和43年)に日本へ返還された。
日本領への編入と産業の発展
日本が近代国家としての領域を確定させていく過程で、太平洋上の島々の帰属問題は重要な外交課題であった。幕末から明治初期にかけて小笠原諸島本群の領有を確実なものとした日本政府は、さらに南方の火山列島(硫黄列島)にも目を向けた。1891年(明治24年)9月、勅令により硫黄島を含む火山列島は正式に日本の領土に編入され、東京府小笠原島庁の所管となった。
領有確定後は民間による開拓が始まり、硫黄島という名の由来にもなった硫黄の採掘が主要な産業として発展した。また、温暖な気候を活かしたサトウキビ栽培、レモングラス等の香料栽培、さらには薬用植物であるコカの栽培なども行われた。昭和初期には島の人口が1,000人を超え、学校や集落が形成されて豊かな島民生活が営まれていた。
太平洋戦争と「硫黄島の戦い」
硫黄島が歴史の表舞台で最も悲劇的な形で名を残すことになったのは、太平洋戦争末期の硫黄島の戦いである。1944年(昭和19年)に絶対国防圏が崩壊し、サイパン島などマリアナ諸島を奪取したアメリカ軍は、日本本土への長距離爆撃機(B-29)による空襲を本格化させていた。硫黄島はマリアナ諸島と日本本土のほぼ中間に位置しており、アメリカ軍にとっては損傷した爆撃機の不時着飛行場および護衛戦闘機の出撃基地として、戦略上極めて重要な価値を持っていた。
1945年(昭和20年)2月、アメリカ軍は圧倒的な艦砲射撃ののち、硫黄島への上陸を開始した。これを迎え撃つ日本軍の守備隊司令官・栗林忠道中将は、水際での迎撃を避け、島中に網の目のような地下陣地を張り巡らせるという徹底した持久戦術を採用した。日本軍は水や食糧が枯渇し、高温の地熱に苦しめられる過酷な状況下で約1ヶ月にわたり抗戦を続けた。しかし、3月下旬に日本軍の組織的戦闘は終結し、日本の戦死者は約2万人にのぼった。一方、アメリカ軍の死傷者も約2万8千人を数え、米軍の損害が日本軍の戦死者を上回る太平洋戦争において稀有な激戦となった。
アメリカの施政権下から日本への返還
硫黄島の陥落により、アメリカ軍は島の飛行場を最大限に活用することとなり、その後の日本本土空襲は一層激化して終戦を早める要因の一つとなった。第二次世界大戦終結後、1952年(昭和27年)に発効したサンフランシスコ平和条約第3条により、小笠原諸島や沖縄とともに硫黄島はアメリカの施政権下に置かれた。
その後、日米間の交渉を経て、1968年(昭和43年)に「小笠原諸島復帰に関する協定」が締結され、硫黄島は日本に返還された。返還後、島には海上自衛隊および航空自衛隊の基地が設置されたが、大量の不発弾の存在や火山活動の危険性などから、現在に至るまで旧島民の帰島は実現しておらず、原則として一般人の立ち入りは禁止されている。
呼称の変遷と現在
硫黄島の呼称については、長らく「いおうじま」として広く定着していた。これは、アメリカ軍が海図等の表記から「Iwo Jima」と呼び、それが国際的にも認知された側面が大きい。しかし、戦前の旧島民の間では本来「いおうとう」と呼ばれていた。旧島民やその子孫からの強い要望を受け、2007年(平成19年)に国土地理院は公式な読み方を「いおうとう」に変更した。
現在も島内には1万柱を超える未収容の遺骨が眠っており、政府による遺骨収集事業が継続されている。硫黄島は、近代日本の領土拡張と開拓の歴史を示す地であると同時に、凄惨な戦争の惨禍と平和の尊さを今に伝える、極めて重要な歴史的記憶の場となっている。