宮崎車之助 (みやざきしゃのすけ)
1841年〜1876年
【概説】
明治初期の士族反乱の一つである「秋月の乱」において、旧秋月藩の不平士族(秋月党)を率いて挙兵した首領。明治政府による廃刀令や秩禄処分などの急速な近代化政策に反発した。熊本の神風連の乱に呼応して立ち上がるも敗北し、自刃を遂げた人物である。
秋月の乱の背景と宮崎の思想
明治政府が推進した四民平等や廃刀令(1876年3月)、秩禄処分(1876年8月)は、特権階級としての地位と経済的基盤を奪われた全国の士族に激しい不満を抱かせた。旧秋月藩(現在の福岡県朝倉市)の藩士であった宮崎車之助は、こうした政府への不満を募らせる急進的な不平士族らを糾合し、「秋月党」を結成した。宮崎らは、単に旧来の特権維持を求めるだけでなく、伝統的な神道を重んじ、西洋化を急ぐ明治政府の姿勢を批判する尊皇攘夷の思想を抱いていた。
挙兵の経緯と歴史的意義
1876(明治9)年10月24日、熊本で神風連の乱が勃発した。この報に接した宮崎らは好機と捉え、同年10月27日に約400名の士族を率いて挙兵した(秋月の乱)。当初は政府の分遣隊を奇襲するなどして優勢に立ったものの、小倉鎮台から急派された政府軍の圧倒的な火力と兵力を前に、軍事的な劣勢は免れなかった。宮崎らは中津や豊津の不平士族との合流を画策したが失敗に終わり、挙兵からわずか数日後の10月31日、福岡県鞍手郡にて自刃した。宮崎らが引き起こしたこの反乱は、同年の萩の乱や、翌年の明治期最大にして最後の士族反乱である西南戦争へと連なる、不平士族の過激化を示す一連の連鎖反応の重要な一環であった。