郡区町村編制法

地方三新法の一つで、大都市を「区」、地方を「郡・町・村」とする新しい行政区画を定めた法律は何か?
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重要度
★★

郡区町村編制法 (ぐんくちょうそんへんせいほう)

1878年

【概説】
1878年(明治11年)に制定された、地方制度改革のための法律。明治初期の「大区・小区制」を廃止し、歴史的な地域区分である郡・町・村を復活させるとともに、大都市に「区」を設置した。府県会規則、地方税規則とともに地方三新法を構成し、日本の近代的地方制度の基礎を築いた。

制定の背景――大区小区制の破綻と大久保利通の意図

明治政府は、廃藩置県後に地方行政を中央の直接統制下に置くため、1872年(明治5年)に「大区・小区制」を導入した。これは従来の郡や町村などの伝統的な行政区画を無視し、全国を画一的な数字(「第〇大区第〇小区」など)で区切る人工的な制度であった。しかし、この制度は地域社会の実情に合わず、地方の実務(戸籍管理や地租改正など)において大きな混乱を招いた。また、伝統的な町村の結びつきや共同体秩序が破壊されたことで、各地の農民や地方有力者の不満が高まっていた。

こうした中、初代内務卿の大久保利通は、強力な中央集権国家を形成するためには、地域の反発を和らげつつ、地方の実情に即した安定的・効率的な支配体制を再構築する必要があると考えた。大久保の死後、彼の遺志を引き継ぐ形で1878年に制定されたのが、郡区町村編制法をはじめとする「地方三新法」であった。

制度の具体的内容と中央集権的な地方支配

郡区町村編制法は、混乱を極めた大区・小区制を廃止し、歴史的に馴染み深い行政区画へと再編するものであった。具体的には、東京・大阪・京都の三都をはじめとする大都市や主要な開港地には行政区画としての「」を設け、それ以外の地域には歴史的な「」および「町・村」を置いた。

しかし、この改革は単なる伝統への回帰ではなかった。政府は「郡」に官選(国が直接任命する)の「郡長」を配置し、国の出先機関として町村への強い統制力を持たせた。一方で、末端の行政単位である「町村」には、地元住民から選ばれた有力者を「戸長」として据えた。これにより、伝統的な町村の自治機能をある程度活用して住民の不満を宥めつつ、官僚制的なピラミッド構造を通じて、中央政府の命令が末端の町村まで浸透する仕組みが確立されたのである。

歴史的意義と「明治地方制度」への展開

郡区町村編制法の制定は、同時期に高揚していた自由民権運動への対策という側面も有していた。地方三新法の一つである府県会規則によって地方議会(府県会)が開設され、地方の有力者(地主層など)に政治参画の道が開かれた。一方で、郡区町村編制法による官選の郡長を通じた統制は、民権派による地方からの政府批判を抑え込むための「防波堤」の役割を担っていた。

本法によって整えられた地方行政システムは、のちに山県有朋らがドイツ(プロイセン)の制度を模範として進める、1888年(明治21年)の「市制・町村制」および1890年(明治23年)の「府県制・郡制」(いわゆる明治地方制度)の導入に向けて、不可欠な前提条件となった。このように、郡区町村編制法は日本の地方行政が近代化・官僚化していく過程における重要な過渡期を示す法律である。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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