明治十四年の政変

1881年、開拓使官有物払下事件への批判の黒幕とみなされた大隈重信が、伊藤博文らによって政府から追放された事件を何というか?
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明治十四年の政変

1881年

【概説】
1881(明治14)年、開拓使官有物払下事件を契機に生じた政府内の対立から、参議の大隈重信が伊藤博文らによって政府から追放された政治的事件。この政変に伴い、政府は払下の取り消しと「国会開設の勅諭」を発布し、伊藤を中心とする薩長藩閥体制と、プロイセン流の君主権の強い立憲国家建設への道筋が確定した。

自由民権運動の高揚と開拓使官有物払下事件

1880年代初頭、日本国内では自由民権運動が全国的な高揚を見せ、国会開設を求める声が日に日に強まっていた。そのような中、1881(明治14)年に開拓使官有物払下事件が発覚する。これは、開拓使長官であった薩摩出身の黒田清隆が、総額1400万円を投じた開拓使の官有物を、同郷の政商である五代友厚らが結成した関西貿易社へ、わずか38万円、しかも無利息30年賦という不当に安い価格で払い下げようとした事件である。この情報が新聞で報じられると、民権派はこれを「藩閥と政商の癒着」として激しく非難し、政府に対する世論の批判は沸騰した。

憲法構想を巡る政府内の対立

当時、政府の内部でも、やがて来るべき憲法制定と国会開設のあり方を巡って深刻な路線対立が生じていた。参議であった肥前出身の大隈重信は、イギリス流の議院内閣制をモデルとし、早期の憲法制定と翌年の国会開設を主張する急進的な意見書を提出していた。これに対し、伊藤博文や井上馨をはじめとする薩長出身の参議や、右大臣の岩倉具視らは、君主大権の強いプロイセン(ドイツ)型の憲法を念頭に置き、漸進的な国会開設を構想していたため、両陣営の溝は深まるばかりであった。

政変の勃発と大隈派の追放

世論の激しい政府批判に直面した伊藤や岩倉らは、払下事件を非難する民権運動の背後に大隈がいると疑念を抱いた。大隈が福沢諭吉を中心とする慶應義塾系の人脈(交詢社など)や民権派と結託し、政府の機密情報を漏洩して民衆を扇動しているとみなしたのである。明治天皇が東北巡幸から帰京した直後の1881年10月11日、伊藤らは秘密裏に御前会議を開き、大隈の罷免を決定した。翌12日、大隈をはじめ、矢野龍渓や犬養毅、尾崎行雄など、大隈に同調する政府内の急進派官僚が次々と追放された。これが明治十四年の政変である。

国会開設の勅諭と歴史的意義

政府は政変による動揺を収束させ、世論の反発を和らげるため、同日のうちに黒田による官有物払下の取り消しを発表するとともに、国会開設の勅諭を発布した。これは、10年後の1890(明治23)年に国会を開設することを国民に公約するものであった。

この政変は近代日本の政治史において極めて重要な転換点となった。第一に、大隈という強力な政敵を排除したことで、伊藤博文を中心とする薩長藩閥体制が確立し、プロイセン流の君主権限の強い憲法制定への路線が事実上確定した。第二に、国会開設の時期が明確になったことで、民権派は議会政治への準備に向けた政党結成へと動き出し、板垣退助を党首とする自由党や、下野した大隈重信を党首とする立憲改進党が誕生するなど、本格的な政党政治への胎動が促される結果となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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