良寛 (りょうかん)
【概説】
江戸時代後期(化政文化期)に活動した、越後国出身の曹洞宗の禅僧、歌人、書家。俗世の名利を嫌って生涯を清貧な隠遁生活に捧げ、子どもたちと遊ぶことを愛する純真無垢な人間性と、万葉風の素朴で格調高い和歌や独特の書で知られる人物。
出家と備中玉島・円通寺での厳しい修行
良寛は、越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主であり、尼瀬関船共同管理を務める橘屋(山本家)の長男として生まれた。幼名は栄蔵、のちに文孝。家督を継ぐ立場にあり、若くして名主見習いとなったが、18歳で突如出家し、隣町の光照寺に入った。その後、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)にある曹洞宗の名刹・円通寺の住職であった国仙和尚に師事し、約12年間にわたって極めて厳しい禅の修行に励んだ。国仙からその実力を認められて印可(修行を終えた証明)を授けられた後、師の遷化(逝去)を契機に円通寺を去り、約5年間に及ぶ諸国行脚の漂泊の旅へと出た。
五合庵での隠遁生活と庶民・子どもたちとの交流
40代半ばで故郷の越後に戻った良寛は、国上山(くがみやま)にある五合庵や、山麓の乙子神社(おとごじんじゃ)境内の草庵などに住まい、生涯を寺を持たない不規律な托鉢僧として過ごした。彼の生活は、その日に食べる分だけを托鉢で得る極貧のものであったが、本人はそれを「清貧」として楽しんだ。良寛は村の子どもたちと手毬(てまり)やおはじき、鬼ごっこをして遊ぶことを好んだ。子どもたちと遊んでいる間は托鉢の袋すら忘れてしまうほど無心になり、その純真で邪気のない生き方は、同時代の身分制社会の中で暮らす農民や町人から深く愛され、精神的な救いとなった。この人間性こそが、今なお彼が慕われ続ける理由である。
万葉風の和歌と「書」が放つ独自の芸術性
良寛は禅僧としてだけでなく、優れた芸術家でもあった。文学面では『万葉集』の歌風を慕い、当時の技巧的な歌壇から距離を置いて、素朴で飾り気のない、しかし深い精神性を湛えた和歌や漢詩を数多く残した。また、彼の「書」は、古典を徹底的に独学した末に到達した、流派にとらわれない自由で細く、しなやかな筆致が特徴であり、日本の書道史上において極めて高い評価を得ている。晩年には、年の離れた若い尼僧である貞心尼と出会い、清らかな和歌の贈答を通じて心の交流を深めた。町人文化(化政文化)が享楽的に成熟していく19世紀初頭において、俗世の欲望から身を引いて独自の精神世界を確立した良寛の生き方は、日本人の自然観や宗教観の一つの究極の形を示している。